2018-05-18

合格体験記(3)「ディスレクシアの勉強法に"共通解"は存在しない」

合格体験記の3人目は、合理的配慮を受けて受験し,某国立大学に合格した生徒です。
センター、2次試験、私大で配慮を受けています。

この生徒からは、当ブログのコメント欄への書き込みを通じて、初めて連絡を受けました→
浪人が決まった3月末から授業を開始しました。

彼は優雅でストイックな修行僧。ゆったり、ふんわりと構えているのですが、芯がめちゃくちゃ強い。内に秘めたストイックさたるや,普通では考えられないレベルです。
「他人がどう思うか」とか「世間的評価」などというものを、完全に超越しています。
行動基準の軸が明確にあって,その一つは「美しいかどうか」 に見えます。自覚がないと言っていますが…

また、「自分には自由が必要」「こうしろと決めつけられると逆の方向に行ってしまう」と語る通り,ものすごく精神的に自立してます。
私と彼が話しているところを見た別の生徒が「先生のほうが生徒で,生徒が先生みたい」と言っていました。そうかもしれません。

ディスレクシアとしては、正確だが想起が遅いタイプです。
授業中も、こちらが言ったことを自分の中に落とし込むのに、2~3秒の間が必要でした。

理系科目は得意で、現役時点でまずまず戦える実力を持っていました。「物理では、動きを想像すればどうなるか、だいたい予想がついた。それにあわせて式を書いていった」
ディスレクシア的な得意さとしては,こうしたシミュレーション能力、空間把握能力、そして戦略的思考がずば抜けています。

自由な校風の一貫校卒。ディスレクシアに気付いたのが現役のセンター試験受験直後のため,高校では一切配慮は受けていません。

いま改めて読むと,最初のコメント→と私の返事は暗示的です。
彼は本当に波乱が多いといいますか…同じ出来事でも彼にかかると,なぜかドラマチックになります。
まるで彼の周囲の磁場がゆがんでいて,半径1m以内に入ると物事が劇的化するような(笑)
#あるいは、「不注意傾向」を美しく言い換えると、こうなるのかも?

ここには書けないような劇的な半生、そして劇的な逆転合格でした。その精神力の強さには感服するしかありません。

それではどうぞ:


☆   ☆   ☆


ディスレクシアなどの発達障害を抱えている私にとって、大学受験には困難が沢山ありました。
そのような困難の種類や程度は本当に人それぞれで、発達障害を抱えている方の中にはむしろ、大学受験などでは筆記試験が向いている方もいるかと思います。

ディスレクシアにはこの勉強法が適している、英語長文はこう読むといい、というようなディスレクシアの方々における共通解というものはほとんど存在しないと考えています。
難しいことではあると思いますが、最も重要であることは自分の特性を理解し、その特性に合った勉強法や受験方式を探ることだと思います。
この作業は経験則と推論から行うものであり、特に経験則については検証実験を繰り返すことによって確立していくので、大変時間がかかります。

ここからはそんな多種多様な特性のうち、たったひとつの事例として私の経験談を受け止めていただければと思います。

(※ この合格体験記を依頼したとき「自分の事例は自分にしか当てはまらないから」と断るのを,「それでかまわない。「『ディスレクシアに適した一つの学習法はない』というのがこの一年で分かったことだった,というのも十分に発見なんだから」と説得して,この文章を書いてもらっています。)

◆勉強法について
  まず勉強法についてですが、私の場合、自分の特性に合っていると思われる今の勉強法にたどり着けたのは勉強法を探り出してから1年程経過してからでした。
そもそも自分に特性があるとはっきり理解していなかったために私は世間で広く言われる勉強法の中にこそ自分に合った勉強法がある確率が高いと考え、板書型の授業を集中してもれなく書き写すことや、わかりやすいと評判の大手予備校人気講師の授業を受けるなどをしてきました。
当時の私の感覚を正直に表現するならば、板書を一生懸命写す授業に関しては写すことと理解することを同時に行うことが難しいからとりあえず写しておいて後で理解しよう、人気講師の授業についてはなぜ人気なのかよくわからないといったところでした。

このような疑問を抱えながらも、世間で言われる有効な学習法が自分だけ当てはまらないなんてことはないだろうという思い込みのために、私は1年間この方法を採用し続けました。

この勉強法が自分には向いていないと気づく転機となったのは、教科書で独学した部分の内容だけ圧倒的に理解そして応用が可能であったことからです。
そして他の科目も教科書を読んでみたところ、これは授業の100倍わかりやすい!と感銘を受けたのです。
(※このあたりのことは,現役時のコメントに詳しいです→ 
彼は「歌詞が聞き取れない。人間という楽器が鳴っているように聞こえる」と言っていたことがあり、おそらく音韻認識が遅い(音声言語を聞いて、何と言っているか理解するのに少し時間がかかる)と思われます。だから講義形式の授業についていけなかったのでしょう。「1.5時間分の板書をとったら、それを解読して理解するのに同じだけ時間がかかる」とも言っていました。 
自分のスタイルや好みが非常に明確な彼も、なぜか勉強法に関しては、当初は「他人が良いと言う方法」に従っていました。彼の浪人生活は,そこから「自分の直観に従った学習法」へとどんどん移行していく一年でした。その皮切りに,彼は業界慣行的には考えられない道を選びます・・・)
直後に始まった浪人生活では、この方法を実行するために宅浪(有料自習室通い)を選択しました。(英語についてはもじこ塾で個別指導を受けはじめました)

宅浪の最大の利点は、全て自分のペースで進められることでした。私にとってはまさにこれが重要であり、この自分のペースというものが世間一般とはどのくらい違うのかわかりやすい例を示しますと、浪人1年間で使用した参考書は各科目それぞれ基本的内容の12冊ぐらいであったことが言えると思います。
読むのや理解するのはとても遅いのですが、読んだ内容は比較的深く理解することと応用することができたので、一冊をじっくり読み込むことに重点を置きました。
(※「自習室でじ~っくり参考書を読む」という学習スタイルは本当に驚きでしたが,『参考書を読んだほうが圧倒的にわかりやすい』と言われれば納得でした。そして確かにその方法で理系科目の成績は上がり,最終的にはオープン模試でA判定を出しました。英語と国語は最後まで苦手でした。) 
(※彼の学習スタイルは,「ディスレクシアでも,読むことが一番理解しやすいケースもある」ことを示しています。) 
(※彼はずっと「暗記ができない」と訴えていました。単語の意味を教えてあげると、メモしながら「でも明日には忘れちゃうんですよね」。合格後に聞いた話では、物理や化学は「読んだ端から忘れていく。参考書を三周してようやく人の半分覚えられるんですよ」でも、人の何倍もかかるというなら、覚悟を決めてやるしかないということを、私は彼から学びました。人の10倍かかるというなら,10倍やるしかない何もしなければゼロなのだから・・・
と合格後に話したところ、「でもその部分はくやしいのであまり表に出したくない」と言っていました(苦笑)。ディスレクシアだとルールのキワキワの所を狙っていく面があるので、泥臭い部分は前面に出したくないようです。)

また集団授業は提示された目の前の課題に対しての解説をすることが基本ですが、私はもそもその問題がその科目の中でどういう立ち位置の問題なのか、どのような意味を持った問題なのか、そこを把握しないと先に進めず解き方の解説などは頭に入って来ませんでした。(どういう立ち位置の問題なのかというのは、その問題が他の似た問題とどういう関係にあるのかといったことです)
(※ピノコが同じことを言ってます!全体像を把握することが必要なんですね。) 
しかし独学だとこの点参考書のページを前に戻って前問を確認するなどして今解こうとしている問題の立ち位置や意義を理解することができますし、そもそも板書が全て綺麗に取ってあるものが参考書ですから板書をノートに書き写すだけの時間を省くことができました。


このような勉強法探しがむやみやたらに勉強することよりもずっと大切なことだと伝えるために、あるひとつの目安として私の模試の結果をお伝えしたいと思います。
そもそも進学校に通っていたわけではないこともありますが、私の高校3年時の大手予備校の平均的なレベルの模試の英語の偏差値は29でした。
ただ予備校に通っていただけではできなかったであろう合格は、自分に合った勉強法を見つけられた結果だと思っています。
(予備校に通うことが悪いというわけではありません。もちろん、予備校のわかりやすい授業を取ることが合っている人もいると思います、ただ僕の場合は違ったということです)
(※合格後にこの数字を見せられて,愕然としました。そこまで変わるとは。彼の場合,勉強したいという思いがものすごく強い(研究者志望),かつ,ミスマッチの勉強方法を続けて来た,という部分が大きいと思います。そう簡単にまねできるものではありません。
とはいえ・・・もじこ塾に来る生徒のなかには,本当に自分を追い込んで努力する一派がいます。そういう人たちには,上の話は「努力は正しい方向性で行うことが大切」というメッセージになっていると思います。)

◆受験方式について(マーク式か,記述式か)
  次に受験方式について、これもまた世間一般の感覚が自分には当てはまらなかったというのが受験後に気がついた点です。

模試にはマーク模試(センター試験型)と記述模試がありますが、私はマーク模試が苦手で記述模試の方が比較的得意でした。

予備校としては同じ学力の人間が同じ科目で受ければどちらも同じような判定結果になると想定しているためか、マーク形式の試験の判定を記述模試で出したりしています。
(※マーク模試でも国立大の判定を出すし、記述模試でも私大の判定を出す、ということです)

しかし私のようなマークか記述かで得意不得意がはっきりと分かれている人間にとってそれは成立せず、結果的に言えば記述模試でA判定であろうとマーク形式の私立大学は全て不合格となりました。

逆に第一志望の国立大学はセンターボーダーラインのー11%で出願し、もちろんセンターリサーチはE判定でしたが2次試験が記述式であったために逆転合格することができました。(入学後、自分よりセンターの低い人には未だ出会っていません、、)

このように特性のある自分にとっては予備校が発表する入試偏差値というものよりも、むしろ入試形式の方が結果を左右することとなりました。
つまり志望校を選択する時点で自分の特性に合った入試形式を考慮する必要があったのです。
(※私大全落ちで国立に臨むことになったときは、なんと声をかけようかと。。本当に崖っぷちからの逆転合格でした。ただし、ディスレクシアにおいては、進学先以外は全落ちというケースは決して珍しくありません。) 
(記述型とマーク式でこんなにも点数に差が出る理由としては:選択式問題は各選択肢の差が微妙すぎて,ざっくり読んでいるディスレクシアには違いが分からない,誘導に乗るタイプの問題で誘導に乗れない,1つの単語を聞くような問題は苦手,問題用紙の字が小さくつまっていて読みにくい…などの理由が考えられます。) 

◆もじこ塾について
最後にもじこ塾の活用方法についてです。
私がもじこ塾に通っていた意義としては正直英語学習という側面は半分程度であり、残りの半分は自分の特性理解やそれに対応した長文の読み方やセンター試験形式の解き方を探ることでした。
しかし既に述べたようにこの後者の役割はとても大きく、特性を理解した上で解決策を提案してもらうことは、自分に合った解き方を見つけるキッカケとなりました
もちろん特性は多種多様で一発で解決策が分かるわけではないですが、自分に合った勉強法を探すのに1年間予備校の集団授業を受けてみたというような時間的ロスを省くことが出来たということです。
また、段落の頭で"活用方法"と書いたのには意味があり、常に自分が主体的で先生とはコンサルティング契約を結んで情報提供を受けているという意識でいることが重要であると思っているからです。
何故その意識が重要だと思っているかは説明できません。ただ直感的にその方が有効であると思うのです。


(※ちょっと待った、これじゃ私が英語を大して教えてないみたいじゃない(笑)こちらとしては、彼に限っては、絶対よそではできないことをしている自負があったので、以下書いておきます。 
彼とは"感想戦"を徹底的に行いました。まず時間をはかって(20分~45分),1本長文問題を目の前で解いてもらいます。黙読する様子をつぶさに観察し,何を考えているのか想像します。 
その後,解答の添削をしながら討論。どのセンテンスを読むことにしたか,それはなぜか,どんな内容を読み取れたか,次に生かせる教訓は何か・・・ということを議論します。ここでのポイントは困難を言語化すること。彼が思考のプロセスを訴え、私が対処方法を提案し,それを採用するかどうかは彼が決める、というスタイルが多かったと思います。特性の話、志望校決め、求められれば何でも徹底討論しました。・・・あっ、これがコンサルティングですね?!)
(※もう一つ、もじこ塾では合理的配慮申請のお手伝いを行いました。彼がすごいのは、区の支援センターに問い合わせ、病院に行き、診断書を依頼し、大学入試センターに連絡し、いくつかの大学に問い合わせ、必要な書類を作成し・・・という膨大な作業を、すべて自分でこなしたこと。こんなところにも、彼の並々ならぬ意志力が現れています。 
夏に診断書が出て,秋には大学入試センターから配慮申請が通ったとの連絡が来て・・・二次試験で時間延長を受けられる確約はなかったものの,前進があるたびに,時間延長の合理的配慮をイメージした対策を深めていきました(最終的にこの確約が来たのは二次出願の直前でした)。夏から秋にかけては模試でもまだ結果が伴っておらず、微熱が続き体調もいまいちで、精神的に苦しい時期でした。それでも彼は一切ぶれることがありませんでした。) 
(※合格後、「自分のことは自分が一番よくわかるという自信というかわがままな部分と、これで正しいのかという不安がある」と言っていました。)

☆  ☆  ☆

彼のようにストイックで精神的に自立した生徒から、唯一の塾に選んでもらえたことを、もじこ塾は誇りに思います(泣き笑い)。

彼は、今後のもじこ塾の方向性について、重要な示唆を与えてくれました。
もじこのディスレクシア・ジャーニーの目標は、「社会変革」です。これは最初からずっとそうです。ディスレクシアという人種が存在することを,まずは教育現場の人に,知ってもらいたいと思っています。
でもそのための活動は、あくまでも美しくあるべきだと、私は彼から教えられました。
美しくない社会変革運動は、何より当事者のためにならないのだと。
美しいとはどういうことか・・・これを言語化するのはもう少し時間かかかりそうですが,彼は私の中に直観的な評価軸を残していきました。
きっとこれからのもじこ塾は,この「美しいかどうか」を基準に,進むべき方向性を決めていくことでしょう。

もう一つは、「ディスレクシア英語教育の最適解はない。でも,教える側は手札をたくさん持っている必要があり、知識と観察力と対応力が試される」という、教師力の課題です。

もじこ塾はより一層ディスレクシア塾となり、新しい生徒たちのために、教師力にさらに磨きをかけてまいります。
そして、定型の人が入りたいとうらやむような美しい塾(笑)へと、進化していく所存です。

7 件のコメント:

  1. この生徒さんは、本当に自立した精神の持ち主ですね。
    ある種、日本人離れしているような気がします。

    私は、わが子の問題に直面してから特に、
    「板書」や「ノートテイク」を授業等で重んじる意味が
    分からずにいます。
    学生時代も、ノート作成には全く力を入れていませんでした。

    物理的(この表現でよいのか分かりませんが)にも
    処理能力の高い東大生であれば、当然、綺麗なノートを書き、
    その内容を理解することが容易にできるでしょう。

    ただ、一般の児童・生徒(定型・非定型問わず)にとって、
    ノートテイクを頑張ったからと言って、
    その学習内容の理解が上がるか、というのは大いに疑問です。
    授業参観で見ていても、その板書の時間を使って、
    もっと色々な方向から説明してみる、純粋に問題に取り組む、
    というようなことをしたほうがいいのでは?
    という場面も何回も見ています。

    カエル君の指摘のとおり、板書にあることは
    参考書(や教科書)に、とても見やすい状態で
    記載されています。

    書くと、覚えられる、理解できる、というタイプの子には
    板書は有効ですが、ディスレクシアに限らず、
    これは、すべての子供に有効、ではないと思っています。
    (学校の先生には言えないですけれど)

    すべての子供が自分に合った勉強法を見つけられるように
    色々な先生が、もっと研究してくださるといいなと
    思っています……。
    (几帳面だけれど、成績がパっとしない子への救済策、
     としてのノートテイク評価という面があるらしいですが、
     少なくとも基本事項がきちんと理解できるような方法に
     力を振り向けられるように指導するべきだと思うのです)

    もじこ先生のディスレクシアジャーニーを応援しております!

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  2. ありがとうございます。
    上を読んだカエル君からコメントが届きました。許可を得て転載します:

    (…)現在の教育が全てノートテイクを基本に出来上がってしまっているという指摘にはとても共感ができます。大学に来ても、先生が教科書の内容を板書していき、生徒がそれをひたすらノートに書き写すというスタイルが授業の基本です。ぼくはもともとそれが全く合わないことを理解しているので、初日の一日以降大学では一回もノートを取ってない(高校の途中からも)です。
    ノートテイクが自分に向いていない理由は、ワーキングメモリーが低いと1文を写すのに10回くらい頭の上げ下げが必要になること、処理速度が遅いためそもそも板書が追いつかない、書き写しと理解を同時にこなせないなどだと思います。
    この学習法は定型の方でも情報処理が得意な方ほど有効に働くために、いわゆる高偏差値の人たちとはこの情報処理が得意な方々となっていくように思います。情報処理が得意であると、この学習法は理解もでき覚えることもでき手を動かすこともでき、本当に有効なんだろうなとは思います。ただこの方法がみんなに向いてるかと言われると、少なくとも僕は向いてないし、定型の方でも向いていない方はそれなりにいてもおかしくないかなとは思います。
    その割合はわかりませんが、もし一定数存在するならば日常的な学校での学習法について、選択肢を与えられるようになるといいという理想があります。ただこの何が向いているかどうかという選択は自己感覚に基づいてやることなので、 学習者全員に要求することはとても難しいとも思います。


    あと定型の方でも向いてない方はそれなりにいるはずと思っている理由は、高校でも駿台でも大学でも 、 数学などの授業中の板書で先生が(計算など)間違えて書くと 、 みんな間違えたまま書き写します。それで先生が答えが合わないことから自分の間違えに気づいて板書を書き直すと、 多くの人が自分のノートを消しゴムで消して直します!!ここで消しゴムを使わない人こそ本当にノートテイクが向いている人なはずで(板書を写しながら理論的つながりも理解しているはずだから) 、 消しゴムを持った人はつまりただ書き写してるだけなのです。英語ではわかりにくいかもしれませんが、先生が予備校などで授業を行なっていた時や授業参観などの時の感覚として 、 この間違えをそのまま写す人って結構多いと思いませんか?

    大学のある数学の授業がとても難解でみんなヒーヒー言ってるのですが、みんなとりあえずノートだけは完璧にとっておいて後で読解するとか言って、 頑張って板書写してます。授業時間1時間半ずっと書き写してます。ほとんどみんな理解してないから、 先生間違えるとみんな消しゴム使ってます。つまり1時間半かけてみんな自分で勉強するための参考書作りをしているのです。僕はその同級生が頑張って作った参考書をアイス一個で全コピーしました、ほんとお買い得です。でもみんなこの一コマ1時間半の参考書制作時間を無駄だとは思わないみたいなんです

    あと中学や高校でよくあるノート評価、これは本当に意味わかんないです。なぜ複製能力コンテストが授業評価につながるのか。ノートに板書して勉強するという勉強スタイルを完全に押し付けた評価方法で、これによってあたかもノート学習が正しい勉強法だとみんなを信じ込ませていってるんじゃないかと思います。これでは勉強法の選択肢を与えるどころか、他の勉強法は認めないという学校のスタンスがよく表れている気がします。

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  3. カエル君にコメントをいただけて、嬉しいです!
    アイス1個でノートを全コピーさせてもらえるのは
    ひとえにカエル君の
    対人能力と交渉能力の高さの賜物、
    ではないでしょうか。

    保護者として学校に関わって痛感することは
    教育現場での圧倒的なリソース不足です。
    (予算、人員、設備・・・)

    加えて先生になる方々は
    既存の学校での教育方法が合っていて
    また、それが好きなタイプである可能性が高く、
    最も予算のかからない授業方法を当然の前提で
    「スタンダードなもの」として受止めているように見えます。

    ただ、教室で授業を理解できてなさそうな子供達が
    場合によっては半分ぐらいいることと、
    親自身も子供の小学校の学習内容が
    フォローできない、と言い切るケースが
    少なからずあることを考えると
    (つまり、親も小学校の学習内容を
     完全に理解してきていない)
    ノートテイク中心の授業方法は、定型発達の人でも
    ついていくのは結構厳しいのではないかと思うのです。

    遠い記憶ですが、高校までは、
    間違った板書をそのまま写す人のほうが多数派だった気がします……。

    これからの子供達には
    多様な学習方法の選択肢が与えられるように願って
    (ちょっとだけ行動して)います……。

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  4. こんにちは。初めてコメントいたします。過日、もじこさんには私からのぶしつけなメールに温かいお返事をいただき本当にありがとうございました。

    今回の記事、昔の自分のきつかった部分が彷彿と思い出され、思わず書いています。板書写し嫌いでした。そうか、人より上向いたり下向いたりしてたんだ、きっと(笑)。それから、板書を見て考える頭と、写したノートで考える頭が、違うんですよね(自分で考えながら書くノートは問題なし)。視覚的に理解するからでしょうかね。それで、前を向いているときと下を向いているときに頭の切り替えが必要で、それが本当に無駄な労力に思えました。自分には効果がなかったので、「板書写しは時間の無駄」とも思っていました。それで、自分が主催した学習塾(中3専門で5教科やってました)ではノートテイクは一切なし(ついでに宿題一切なし)でやってました。思えば私の塾でディスレクシアチックな生徒には劇的な効果があったのは、私がそういう傾向の人で、そういう人に合う授業をやっていたからかもなぁ、と今更つくづく思います。

    今回、コメントで挙げられている問題意識と同じことを考えて、「感覚」でやっていた学習塾をいったん閉じ、学術的な裏付けがとりたくて、over50にして大学院に入りました。いつかこの地域の学校の先生たちと、いろいろな認知・処理方法をもつ生徒に対応できるような授業の工夫・・・事例の積み重ねができたら、と思っています。忙しい先生たちにも簡単にできることから始めたい。絶対「点数」にも効果が出るはずですから。今のところ、「夢」ですが。の前に、もじこさんもおっしゃられていたとおり、研究として行うには、「歯が立たない」感じが・・・!! 

    最近、ニューロダイバシティという言葉を知りました。脳の個性ですよね。LDと診断されなくたって、脳の個性はあるし、その脳に効果的な学び、「無駄な」学び、ってあるということを、社会の一般常識にできたらいいのにと思う日々です。

    いろいろ書きなぐってすみません。また、お邪魔します。

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  5. もういっこ。
    私が研究をしたいと思い、それを続けている原動力は、塾で出会った生徒たちです。本当は、全体から細部に移る思考や、自分なりの「引っかかるカギ」を作って覚えていくのが適したやり方なのに、ただただ「繰り返し書く」「本を写す」というその子に合わない=成果が出ない方法を繰り返す生徒。セルフエスティームは下がり、親御さんも「この子は出来は悪いけど、努力だけはできる子」と評価し、その承認を得たいがために、また「努力」という形のルーティンをこなしている・・・。私は、静かにその生徒に合った方法に導くよう注力しながらも、悔しかったり悲しかったり。それが一人や二人ではなかったのです。それを思い出すと、端緒についたばかりの研究が、いきなりうまくいかなかったりするけど、どうしてもやりたい、と思うのです。

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  6. はじめましてごんさん、カエルと申します。
    自分がとても共感できた部分があるので引用させていただきます。
    「それから、板書を見て考える頭と、写したノートで考える頭が、違うんですよね(自分で考えながら書くノートは問題なし)。視覚的に理解するからでしょうかね。それで、前を向いているときと下を向いているときに頭の切り替えが必要で、それが本当に無駄な労力に思えました。」
    まさに自分が思っていたことを言語化していただいたような気がします。僕も自分で考えながら書くノートには全く抵抗ありません、しかし黒板に書かれた人の考えを追って理解することと、それを自分のノートに書き写すというタスクを同時にこなすことはおそらくその切り替えの負担がとても大きいので難しかったです。

    このような特性がディスレクシアに共通しているのであれば、それは教える側として対策が可能であると思います。しかしディスレクシアの特性は人それぞれ異なり、またその自分の特性を正確に把握すること自体がとても難しので、一人一人に適した学習方法を提供する教育機関を創造することは本当に難易度の高いことであるはずです。
    僕はそんなところに挑むもじこ先生やごんさんに敬意を評し、また何か僕に協力できることがあればぜひと思っています。

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  7. カエルさん、ありがとうございます!このご返事を読んだときには興奮してしまって、「まともでなかった」(え?)ので、お礼をするのが遅れてしまいまして、大変失礼いたしました。「あの時のことはそういうことだったのか」と経験をシェアし共感しあえるのはうれしいことなんだな~、とわかったことが、また嬉しいです。ありがとうございます。

    一人ひとりに適した学習方法を提供するには教える側の「センス」が必要かもしれません。でも、「今の学校教育の状態」が結構偏っているので(?!)簡単に変えられるところから変えることはできのではないかな~と思っています。たとえば宿題の問題集をタイプの違った2種類から選ぶ、とか、漢字の覚え方を繰り返し書いて覚えたい人と、視覚的に覚えてテスト形式を繰り返した方が定着する人と分けて学ぶ、みたいに。ベストな方法をいきなり出すことはできなくても、ベターを積み重ねていくことはできると信じているのです。そうして生徒側が「それが自分に適しているかどうか?」と考えることを、(これまた)積み重ねていくと、その人自身が自分に適した学習法を選んだり作り出したりする力がついていくように思うのです。

    私も、ディスレクシアを知ってから、自分をいろんな角度から見ることができるようになり、自分に適したやり方、を考えられるようになりました。今も考え続けています。それはなかなかに楽しい旅です。日本中、世界中がそうなったらいいなというのが、私の「夢」です。

    いつか、カエルさんにお会いしてお話できたらうれしいなぁ!どうか今後ともよろしくお願いいたします!!<(_ _)>


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