たいへん間があいてしまいました。。
前回の「
文科省版ディスレクシアのチェックテスト、と見なせるもの」
を書きながら、
「この注意欠陥多動性障害って、もろ私じゃんw」と思っていたのですが、
その後あれよあれよという間にいろんなことが発覚し、
わたし自身がADHDらしいことに気がつきました・・・。
学習障害は遺伝すると、知識としては知っていたのに、
どうして自分がそうだという可能性を疑わなかったのだろう、
と、自分自身にあっけにとられています。
(※以下の本によると、学習障害や発達障害そのものが遺伝するのではなく、
そうなりやすい性質が遺伝するとのこと)
この文章をご覧の、学習障害のお子さんを抱えた親御さんは、
まず一度、自分も学習障害and/or発達障害であるかも?と疑ってみるべきです!
「自分は不注意で短絡的ですぐキレる」と自覚しておくだけでも、
子への二次障害を防ぐことができるはずです。
この1ヵ月に読んだ主な出版物をあげておきます。
「
週刊現代 東大理IIIに合格した人たち」
のなかの
「「出身者の2割は発達障害」は本当なのか」
・「理III学生の2割は発達障害と言われている」(by学生)
・「東大教授の半分は発達障害」(by教授)
・「東大入試は発達障害・学習障害に向いている」(by吉田たかよし氏。この方は
本郷赤門前クリニックというアスペルガー用のクリニックを開設しているもよう)
東大英語は、感情や自分の価値判断を入れず、スピーディーに「処理」していくことが要求されます。
なので、アスペルガーに向いているというのは、本当にその通りだと思います。
が、
東大英語は読む量が膨大で、書く量もかなり多い試験です。
120点満点の試験で、点数開示によると、
小数点以下2桁あるいは3桁まで点数が出ます。
小さなケアレスミスが決して許されない、実に官僚養成学校的な試験です。
この試験形式はディスレクシアにはかなり不利ではないかな、、
と改めて思いました。
数学オリンピックに出るような生徒も2人ほど出会ったことがありますが、
いろんな意味でとても印象的な生徒でした。
・ものすごく頭の回転が速く、また速く回転させていないと不愉快らしい。
ブルーバックス読みながら英語の問題を解いたり。
・会話がかみあわないところがある
・相手への気遣いの言葉(何か教えてもらったら「ありがとう」とか)が出ない
・でもこちらのことを嫌いではないらしい
・自分の外見を外から観察する目がない感じ。洋服がだらしない
・・・そんな彼らをアスペルガーっていうんだなとも思いました。
『私は発達障害のある心療内科医』星野仁彦
その後、この本を読んで、私自身がADHDであることを自覚しました。
同じ著者の『
発達障害に気づかない大人たち』よりも読みやすく、真に迫ってくるものがありました。
思い当たった、自分のADHD的特徴:
・自他ともに認める「落ち着きのなさ」
・翻訳業で締め切りがあるのに、長時間集中できない。
・忘れ物、なくしものが多い。何かひとつは忘れて外出してしまう。
・大学時代、5回以上は財布を落とし、学生証を再々々々々発行して学務課に覚えられた
・ルーチンワークが苦手。(できるが、苦痛に感じる)
・中高の授業中はずっと内職していた。そうでないとむずむずして授業が聞けない
・静かに落ち着いていないといけないような場面が超苦手。物理的に体をじっとさせておくのもつらいし、「いま自分がすっとんきょうな行動をとったらどうなるだろう?」みたいなことばかり考えている
(各種式典など)
・片付けられない、というより、頑張って片付けているが毎回すごいストレスを感じる。
・片付けるのがストレスなので一気に捨ててしまい、あとで買い直したりする。お金がもったいないのでやめたい
この方法で参考書の山の中にはさまっていたパスポートを参考書の山ごと捨ててしまい、諸般の事情から外務省まで行って反省文?みたいなものを出してようやく再発行してもらったことも。
・仕事を断れず、いつも締め切りに追われ、子供のことがおろそかになるのに罪悪感を覚える
→仕事依存はADHDの症状らしいです。
と同時に、子供にもある程度の多動があることに、改めて気づきました。
やはり、学習障害は発達障害に伴うものなのですね。
「発達障害が抑圧されると鬱病を併発するため、
鬱病の診断は、必ず発達障害の可能性を考慮に入れなければならない」
これまで10年に1回、大きな落ち込み期を経験している自分としては、もっと早く知りたかった・・・
『ADHD のび太・ジャイアン症候群』司馬理恵子
上記の本で紹介されていた本。ADHDを「のび太型」(内にこもるタイプ)と「ジャイアン型」(暴力的になるタイプ)があるとしています。
『片付けられない女たち』サリ・ソルデン著、ニキリンコ訳
ADHDを一般に紹介した最初の本のひとつ。
女性は「きちんとしていなければいけない」という社会的抑圧があるぶん、ADHDが表に出なかったりして問題が複雑になる、と言います。
この本が出たときに、立ち読みして「これ私のことかも?」と思った覚えがあります。
でも当時は長いうつ病から立ち直りつつある時期で、これ以上病名がつくのはいやだと思い、
頭から追い払ったのでした。
このように、発達「障害」、学習「障害」という呼び方は、当事者を遠ざけることがあるので、別の呼び方のほうが本人のためには絶対いいです。
これからじっくり内省していこうと思います。
いま言えるのは、
・自分の「発達障害」(=まっとうな社会人とはかくあるべしという規範から、脳機能のレベルで逸脱している)という自覚をもつことは、謎が解けた感じがして、それだけで楽になる
・純粋に学習障害「だけ」というのは、やはりとても少ないのではないか。
・学習障害の子は、親も学習障害/発達障害の可能性を疑うべき。
親が自分の発達障害を自覚すれば子供への接し方をコントロールできるので、二次障害を防げる
・得意(=他人よりできて感謝されること。好きとは必ずしも同じではない)なことを飯の種にできるくらい伸ばし、不得意なことは人に助けてもらったり、カバーする戦略を編み出したりするべし。そうすればなんとか社会とつながっていけます。
これからも探究の旅は続きます!