2019-11-09

今年もIDAにやってきました!(その1:自己紹介の威力、「ストラクチャード・リテラシー」とフォニックス、ディスレクシアが英語を外国語として学ぶこと)

今年もIDAにやってきました!
今年は西海岸オレゴン州、ポートランドで行われています。
乗継便の国内線が遅れに遅れ、新宿の教室から26時間かけてようやく到着・・・


ポートランドは路面電車の町。夜11時でも、空港からホテルまで路面電車で行けました。
道も芝もだだっ広く、空は高く、わたしの妄想通りのアメリカの都市って感じで、時間があったら散策のひとつもしたいのですが、朝7時半には会場入りしないといけません。
アメリカ人は朝が早いですね?!



自己紹介の威力
こんな話からすみません・・・もじこは明らかに英会話力が上がりましたv。

IDAでは、列に並ぶときに、前後の人と会話が始まるのが普通です。

登録の列で、コーヒースタンドのレジ待ちで、
"Where are you from?"
"Where do you teach?"
から始まり、自分の番が回ってくるまで意見交換し、
"Great talking to you. Have a nice day!" と別れます。

過去2回はその輪に入れず、自分の前後で会話が始まるのを指をくわえて見ているだけだったのですが、今年は自分から仕掛けてますv。
「Where do you come from? I come from Tokyo, Japan. I teach English.
I have a small private classroom. My students are all dyslexics ...」

なぜこれができるかというと、もじこ塾ではしょっちゅう自己紹介をしているからです!覚えるくらい自己紹介を繰り返していると、こういう状況でも言葉が出てくるらしいです。

フォニックスや音韻認識の練習を徹底的にやっていることの効果も感じています。
単語の発音に自信が持てるので、脳のリソースをその分、内容にあてられます。

同業者である参加者と会話することも、IDAに来る大きな意義のひとつだと、3回目にして知ってしまいました。しかもこれは相当楽しいです( ̄ー ̄)

~~

「アメリカでは、ディスレクシアはよく知られているんですか?」
と話を振ると、今日聞いた限りでは全員が
「まだまだ全然。学校のなかでもホールワード派(=アンチ・フォニックス派)のなか一人で戦ってるのよ」
「そもそも、ここポートランドだってホールワード派が主流」とのこと。

IDAに来ているのは特に熱心な先生たちで、彼女たち(ここは女性比率99%の集団です)もそれぞれの場所に帰ると、孤軍奮闘しているらしいです。
このあたりは、LD学会と大差ないようです。


「ストラクチャード・リテラシー」とは
とはいえ、IDAのなかでは、フォニックス(英語の音と文字の対応)を明示的・網羅的・段階的に教えることは、当然とされています。
去年は「音韻認識をどう教えるか」が流行語でしたが、今年はどうやらそれもすでに当然となっていて、「統語(受験英語でいう構文)、読解、ライティング(内容のある文章を書く)」もあわせて教えるべきで、そこをどのように教えるかが今年は議論されています。
フォニックス、音韻認識、統語、読解、ライティングをあわせて、
Structured Literacy(ストラクチャード・リテラシー[体系的な読み書き教育])と呼ぶことにしたようです。

ストラクチャード・リテラシーのうち、統語と読解については、日本の英語教育はすでに答えを持っていると思います。
特に構文の教え方は、伊藤和夫(駿台の往年の名講師)が、ある意味ネイティブ用よりも体系的に完成させています。

IDAで、文法やパラグラフ構造の教え方の話を聞くと、
日本の英語教育は、日本語ネイティブのためにはかなりいい線行っていると、改めて感じます。

大きな課題は英語教育の最初の部分、つまり
・英語の音素と文字の対応(フォニックス)、
・英語の音ストリームを聞いて、英語の音素に分解する能力(音韻認識)
に集約されそうです。

来年度から小学校英語が必修化されます。
この2つを教えることが本当に大事なんだと伝えたい・・・


フォニックスは、教師の数だけ教え方がある
フォニックスについては、それが「英語のオトと文字の対応を教えること」より先については、それこそ教師の数だけ教え方があると言っても過言ではないようです。
どこまでをフォニックスルールとして教えるか、接頭辞(re-など)や接尾辞(-tionなど)もフォニックスの続きとして教えるか、さらには、シンセティックとアナリティックのどちらがよいかは、教師によって、あるいは対象とする生徒によって違うようです。

今日の発表を聞いて、「一つひとつの字をなんと読むか」の次の段階については、日本発のアナリティック・フォニックスも、IDAの発表内容にひけをとらないと感じました。


会場の人たちが唱和できるフレーズ2つ
会場の人たちが唱和できるほど浸透しているらしいフレーズが、2つありました。

・The Simple View of Reading is word recognition and language comprehension
(「読む」のシンプルな説明とは「単語を正しく認識できること」と「言語を理解していること」)
うんとざっくり言うと「読む=読字+読解」とでも言い換えられます。
よくわかります。
もじこ塾には「読字ができれば読解はたやすい」と感じさせる生徒が多いです。

一方で、「字」ではなく「語」を認識すること(word recognition)と言っているのには、注意が必要かなと感じます。
この2つは漢字では重なってますが、英語では別物です。

もじこ塾的には、単語の中がもやもやする、単語の意味をなかなか覚えられない、似た単語をとりちがえる、など、「語」は確かに鬼門です。
ディスレクシアにとって「単語」という単位こそが本当に難しいということは、教えるにあたり意識する必要があります。


・Dyslexia is not a visual processing problem.
(ディスレクシアは視覚処理の問題ではない)
これを会場全体が声を合わせて言えたのにはびっくり。ちょっと、いや、かな~り承服しかねるのですが・・・英語のディスレクシアはそれだけ、音韻の困難が大きいことの表れなのでしょうが、それにしても。
ここにはとても書けませんが、日本のディスレクシア業界がここ数年、視覚的困難に対応してきた成果が、一刀両断されていました。

そんなこともあって、列の前後の人との会話タイムでは、草の根で訴えてしまいました。
「日本では視覚的な困難に関係するとみられるディスレクシアも確実に存在し、英語を学ぶようになって初めて音韻に関係するディスレクシアが表れるんですよ」と。。


ディスレクシアが、英語を外国語として学ぶこと
この話は、IDAでは初めて出た気がします。

「ディスレクシアはギフト(才能)だと言われるが、この国で英語が外国語なら、ディスレクシアはギフトとは言えない
読むことに価値を置くかどうかは文化的な問題。そしてこの国は読むことに価値を置く文化である。機会を得るためには読めないといけない。
大学に入っても読むことに苦しんでいたら、ディスレクシアはギフトというより天井になる」

「ディスレクシアはアッパーミドル白人だけの問題ではない」つまり移民や貧困層の問題でもある、という文脈の話ですし、あくまでも「(アメリカで)ディスレクシアが、英語を外国語として学ぶこと」ではあるのですが、残してきた生徒を思い、心が痛くなる発言でした・・・もじこ塾には、身を削るようにして英語と格闘する生徒がいます。

それでも、アメリカに行ってみたいなら行ってみるべき、ディスレクシアであることはそれを止める理由には少しもならない、と生徒たちには言いたいです。
来てみるとわかりますが、ここは見た目から何から本当に多彩な人たちの集まりです。同調圧力とはベクトルの方向性が真逆で、「自分はこういう人です」という精神的自立が常に要求されます。

と同時に、これは会話を仕掛けられるようになってようやく分かったことですが、
自立した人たち同士が助けを求めること、助けを求められることを、美徳とする文化がアメリカにはあります。
自分をしっかり持った人が、「自分は外国人でディスレクシアなので手伝ってほしい」と頼んできたら、その人を助けるのが正しいことである。
そんな価値観が、アメリカにはあると感じます。

では2日目に行ってきます!

0 件のコメント:

コメントを投稿