ディスレクシア専用英語塾「もじこ塾」のブログです。 ●ディスレクシアとは:知能は普通だが、読み書きが苦手(読み間違いが多い、読むのが遅い、書き間違いが多い、読むと疲れやすい)という脳の特性 ●全体像の把握、物事の関係性・ストーリーの把握、空間把握、ifを考えるシミュレーション能力に長ける ●読み書きの困難は、日本語より英語に出やすい ●適切に対処すれば、読みの問題は表面上は克服される ●10人に1人程度いるというのが通説 ●家族性とされるが、ディスレクシアの表れ方は個人差が大きい もじこ塾は、ディスレクシアはこれからの社会に不可欠な才能、でも日々の学習では普通と違うアプローチが必要、という立場です。

2025-11-15

IDAによるディスレクシアの2025年版定義について (その4:話し言葉~Hulme教授講演紹介、新定義から外れた文言、おわりに)

この記事は、IDAによるディスレクシアの新定義についてまとめたものです。

その1(新定義と試訳)→

その2:スピード、形態素、連続体、複雑、二次的影響)→
その3:超早期介入、ナディーン・ガーブ教授講演@LD学会→


以下はその4。新定義の用語解説の続きです。


7. early oral language weaknesses often foreshadow literacy challenges

(発達段階の初期における話し言葉の弱さは、しばしば、リテラシーの困難の予兆となる)


この部分は「SnowlingとHulmeの影響を受けて含めた」そうです。

お二人(夫婦だそうです)はイギリスのディスレクシア研究の大御所です。

ヒューム教授は新定義発表シンポジウムの翌日に講演され、新定義発表シンポジウムより多くの聴衆を集めていました。

「俺らBritsにとってはちと早いんだけど(IDAは8:00開始)、これがアメリカ人のやり方なのでしょう、I know」と笑いを取りながら開始。


ヒューム教授講演のまとめ:

・幼稚園以降、デコーディングと話し言葉のスクリーニングを行うべき(会場から拍手) 

・フォニックスに意味を組み合わせて指導するべき(拍手)。読むためにはデコーディング以外にも、必要なことはたくさんある 

・「話し言葉が読むことに重要な役割を果たす」という内容の教員研修を行うべき(これも拍手して!とご本人がお茶目に促し、会場は笑いながら拍手)



ヒューム教授の講演は、研究成果をもとに就学前後の生徒を対象とした介入プログラム(NELI)を開発し、それをイギリス全土の小学校に導入し、さらには諸外国にも拡張しつつある、という話でした。

科学的根拠に基づく指導、
全員スクリーニングを受けての介入、
プログラムの規模拡張にまつわるさまざまな課題の克服・・・

Research to Practice(研究を実践に)を一人でやってのける、圧巻の内容でした。

そのヒューム教授も、
「ディスレクシアの原因を音韻だけに求めるのは、間違いとは言わないが不完全であった」
と自己批判していました。




ヒューム教授講演







8.  These difficulties … persist even with instruction that is effective for the individual's peers.

(こうした困難は、本人の同級生には効果的な指導を受けた後でさえも残る)

disabilityを示すには、『仲間から逸脱したパフォーマンス』として表現するのが最適と考えた。多くのdisorderの定義がそうなっている。  


風邪のように、一時的にみられるが消え去る種類の困難がある。だがディスレクシアはそれとは違う。学校でもできず、家で練習してもうまくいかず、困難が続く。これをpersist(しつこく続く)という文言で表現すべきと考えた。  



この部分は、読み能力は正規分布を示すという指摘と重なります。
同級生はボリュームゾーンに、ディスレクシアは左側に位置するわけですね。

個人的には、peer(ピア、仲間)という単語選びに、奥深さを感じます。
「ほかの教科は、授業にまずまずついていけるが、英語だけとても大変」
という生徒を、この定義は記述しようとしているように思います。


新定義から外れた文言


1. decoding(デコーディング)

2002年定義の「ディスレクシアは(...)拙劣なスペリングとデコーディングの能力によって特徴づけられる」から「デコーディング」が外され、reading(読む)になりました。


アドバイザーの意見を集めたところ、90%がpoor spelling(スペルミスが多いこと)をディスレクシアの特徴として指摘したが、poor spelling(スペルミスが多いこと)とpoor decoding(デコーディング力が劣っていること)は言語によっては共存するとは限らない。


とのことです。

日本語のことを言っているのかも。。

「漢字は読めるけど書くのは苦手」という状況は、poor spellingを示しているがpoor decodingは呈していない、ということかもしれません。


その反面、もじこ塾で見る限り、生徒は英語を読む際、文字を音にすることに程度の差はあれ苦労しており、「デコーディング」は英語でのディスレクシアの出方を説明するのに最適な単語です。説明文書に残ることを期待したいです。



2 unexpected(予想できない)

2002年定義の「他の認知能力と比べるとしばしば想定外」は、新定義から外されました。 


unexpectedは、IQと成果のディスクレパンシーモデルを想起させるので外した。  unexpectedを強調しすぎるとIQ差の議論に偏ってしまい、指導の重要性が抜け落ちる懸念がある。

この定義は、教室での指導をより効果的にすることに重点を置いた。


ディスクレパンシー(落差)も、fluency同様、議論を呼ぶ表現のようです。

私自身が整理しきれていないので、これくらいにしておきます。



●この定義が何でないか

新定義で扱えなかったこととして、以下があげられました:


・書記体系によって異なるディスレクシアのあり方

・算数障害との関係

・ADHDやDLDなどとの共起


・アセスメントのプロトコルも関係ない。

・基準値を与えるものでもない

・教え方の具体的な方法も示すものではない

・これ自体は法律ではない。法律に転化されなくてはならないが、




●最後に
新しい定義は前回のもの同様、暫定的(working definition)であること、つまり今後も変化していくこと、
当事者を後押しし、親を安心させ、関係者には指針を与えるものであること、
新定義を細かく吟味したうえで共有し、アドボケートしてほしい

・・・との言葉で、シンポジウムはしめくくられました。


書き足りない部分、書き切れない部分があります。

IDAから近日中に出るという発表をお待ちください。

また、もじこが関与する新プロジェクトも始動(かも)。乞うご期待・・・

ここまででも十分に長いのですが、余談を書いておしまいにします。



おわりに(余談)

例年そうなのですが、IDA行きでは基本的に観光はせず、終了から帰国までの移動時間は、できる限りブログを書く作業に捧げるようにしています。帰国したら生徒が待ってますし、まとめることは誰よりも自分のためになっています。


しかし!今年は、ダラスDFW空港での国内線から国際線への乗り継ぎが間に合わず、ダラス空港のロビーで一晩過ごすはめに。これは絶対にDFW空港の運用上の問題。なんで航空会社の公式サイトに掲載されている接続便を予約してこんな目に・・・

でもおかげで、ダラス空港のベンチで、ものすごく集中して原稿整理する時間をもつことができました。PLAUDは神。


今回学んだことは授業と、日本のディスレクシア・コミュニティに還元してまいります!




深夜のDFW空港




2025-11-11

IDAによるディスレクシアの2025年版定義について(その3:超早期介入、ナディーン・ガーブ教授講演@LD学会)

この記事は、IDAによるディスレクシアの新定義のシンポジウムをまとめたものです。

その1(新定義と試訳)→

その2(用語解説その1)→

以下はその3です。

6. language and literacy support before and during the early years of education is particularly effective.

(就学前および就学初期の数年間における言語とリテラシーに関するサポートは、特に効果的である)

Xで特に大きな反響を呼んだのがこの部分。一部繰り返しになりますが、ここにまとめておきます。

↑「すべての人が読めるまで」。IDAのスローガン


まず、
before and during the early years of education
この部分の構文について。

「andは文法的に似たもの同士を結ぶ」という並列関係の法則が発動しますので、
beforeとduringが並列関係にあり、両方ともearly years of educationにつながっています。

before the early years of education(教育の初期の数年間の前)

and

during the early years of education(教育の初期の数年の間)


つまり、「就学前および就学後の最初の数年間」と言っているわけですね。

就学前にサポートを行う」という文言が「超早期介入」と言い換えられ、強い印象を与えたようです。
定型の子もほとんど文字を知らないはずの幼少期に、「この子はディスレクシアかも」と見抜いて何かを行う。それによって読み書き困難を軽減もしくは防止できたとしたら・・・

しかし!ここは「就学前に読み訓練を行う」とは言っていないことに注意が必要です。
そもそも原文には「介入」(intervention)の文字はありません。

就学前後に行うと効果的とされているのは、language and literacy supportです。

これも先ほど同様、languageとliteracyが並列関係にあるため、
「言語のサポートとリテラシーのサポート」となります。

リテラシーとは何か・・・いろんな意味で使われている単語ですが、私は
「読み書きそろばん」と言ったときの「読み書き」をイメージしてもらえると良いのかなと思います。read to learn(読むことを通じて知識を得る)ができる力、という感じです。

「言語とリテラシーのサポート」とは、私の考えでは

○話し言葉を充実させる
(会話をいっぱいしたり、言葉遊びをしたりすることで、語彙力や音韻認識を向上させる)

○読み聞かせを日常的に行う
(もじこ塾に来る方の多くが効果的だったと語るのがこれ。書き言葉を聞くことの意味は、とても大きいようです)

○視覚化されたことばが身近にあり(本、字幕)、それらが面白くて役に立つと思える経験を積ませる
(文字に関心を持つことが、文字を読むことにつながる、、はず)

○自分の話が伝わったという経験を積ませる
(話し言葉や言語全般への信頼感を育てる)

そして、
○大人は子どもに話しかけるとき、助詞をできるだけ省略しないようにする(その2参照)


を言っているのだろうと思います。
「早くから文字を教え込む」という意味ではないと思います。

(なお、こういった経験のなかで文字に関心を示さなかった場合に、ディスレクシアを疑ってもいいかもしれません。)



☆  ☆  ☆

定義に話を戻すと、
この部分は、ハーバード大学の脳科学者、Nadine Gaab(ナディーン・ガーブ)博士が強くプッシュしたから採用されたそうです。

ガーブ博士は、IDAでは真っ赤なパンツスーツでさっそうと登壇してこの部分を力説し、「ナディーンのおかげでこの文言が入った。ありがとう」と言われていました。

実は彼女、この登壇のわずか5日前に、日本のLD学会にも登壇されました。
IDAでは大ホールを満席にできるスーパースターですが、LD学会の聴衆は20人くらい。。ナディーン姐さんに申し訳なかったです。でも姐さんは意に介さず、講演は手抜きなし、私を含む聴衆の質問にも明快に答えてくれて、かっこよかったです。

LD学会の講演内容が、新定義のこの部分と重なるので、少し紹介しておきます。

・「ディスレクシアのパラドックス」。介入に最も適した時期を過ぎてから、ディスレクシアだと気づかれることが多いことを指す。

・4歳頃、脳の変化により、読むことの発達上のタスクが、話し言葉の獲得から音と文字の対応へとシフトする。この時期が介入に最適。

・4歳までは、文字指導ではなく、話し言葉の発達こそが読み能力の発達を支配している。

・家族にディスレクシアがいると、ディスレクシアのリスクは上昇する。だが遺伝子検査は意味がない。ディスレクシアは複雑で多因子的(multifactorial)であり、環境要因が遺伝的要因に影響を与えるので
・つい数週間前に発表した内容だが、早くも生後18ヶ月で、読み困難を引き起こす脳の変化がみられることがわかった。ここから、wait-to-fail(失敗を待つ)、すなわち問題が見えてから対処するのではなく、全員にスクリーニングを行い予防的介入を行う可能性が見えてくる。 

これは、18ヶ月で読み困難がすでに現れているという意味ではありません、18ヶ月はまだ話し始めたくらいです。それにしても、その頃にすでに脳の変化が現れているとは。。

・幼い脳は可塑性が高いので、幼い時期の介入には有意に効果がある

・「待てばやがて読めるようになる」ということは、ディスレクシアにはない

・ディスレクシアはIQとは無関係。視覚の問題ではない。読み能力が発達していると期待される年齢よりもかなり前から識別可能である。



~~~

超早期介入はもじこ塾の範囲外のテーマなので、他の方にぜひ推進してほしいです。

でも、くれぐれも、子どもの心を大事にしたものをお願いしたいです。



2025-10-31

IDAによるディスレクシアの2025年版定義について(その2:スピード、形態素、連続体、複雑、二次的影響)

この記事は、IDAによるディスレクシアの新定義のシンポジウム内容をまとめたものです。

その1(新定義とその試訳)はこちら→






新定義が発表される前に、改定のプロセスが説明されました。


起草委員会が、当初予定の60時間の2倍の時間を投じて意見を交換し、その上で数十名のアドバイザーの意見、さらにはパブリックコメント2000件を経て作り上げられた。

定義変更のモチベーションは、英語以外のディスレクシアの研究が蓄積してきたことにある。特に、言語の粒度と透明性によってディスレクシアの出方が異なることが明らかになってきた。


(★日本のディスレクシア研究者なら誰もが知る、ワイデル先生の1999年の仮説のことですね!日本の要素を感じてうれしかったです)


できるだけグローバルな、さまざまな言語でのディスレクシアに目配りした定義を作りたい


(★IDAのジレンマのひとつだと、個人的には思います。IDA自体は世界に開かれているという姿勢ですが、会場では英語以外のディスレクシアへの関心は正直、とても低いです。

それでも、このような姿勢が打ち出されたのは、大変意義深いことです)


定義紹介の前後に、用語解説が行われました。主なものを紹介します。




1. fluency(流暢性)からspeed(速度)へ

fluencyは実践家に混乱を引き起こす。speedとすることでクリアになる。

automaticity(オートマティシティー、自動化)とfluency(フルエンシー、流暢性)は定義に入れるべきとの声が多かったが、正確性とスピードこそが単語レベルの自動化の主たる要素で、それが今度は流暢性を決定づける。

automaticityとfluencyは説明書きに含める予定。


fluencyという用語の意味をめぐる議論は、昨年のIDAでヒートアップしていました。「fluencyとは速度だけなのか?ただ速く読めばいいというものではないだろう」。結果、定義からは外れましたが、自動化やfluencyという概念そのものを否定したわけではなく、実際セッション中にたくさん耳にしました。


ところで、この部分の原文は

accuracy, speed, or bothとなっています。

構文的には、accuracyとspeedの間にもorが入っています。つまりここの訳は

「正確性もしくは速度、または、正確性と速度の両方」

→「正確性か速度の一方または両方」

です。

「正確だが遅い」というディスレクシアもいるということです。

透明性の高い言語だとそうなると、このシンポジウムでも言っていました。

(ですよね・・・もじこ塾的にも、読む訓練を積んだ一般入試組の多くは、この境地に達します)



2. phonological and morphological (音韻とモーフォロジー)


Underlying difficulties with phonological and morphological processing are common, but not universal

(根底に音韻処理およびmorphology処理の困難があるのが一般的だが、全員ではない)


ポイントは2つ。


その1 音韻一辺倒主義からの脱却

音韻的困難は多くの言語で見られるが、ディスレクシアの困難を単純化しすぎる懸念がある。 
 
IDAはディスレクシアの原因を音韻の困難だけとする見方から、離れたようです。
他のセッションでも、自己反省の弁を聞きました。
コロナ前には「みなさんご唱和ください。せーの、『ディスレクシアは音韻処理の障害である』」とやっていたことを思えば、ものすごい変化です。
こうしてきっぱり変わっていくあたりにも、科学的であろうとするIDAの意志を感じます。

音韻一辺倒からの脱却を宣言することは、かなりの痛みを伴うようです。

起草委員のひとりからは


自分は『ディスレクシアは音韻処理の欠陥』と教わり、そう識別するモデルを作ってしまった。2002年の旧定義はそこまで断言していなかったのに。しかしそのせいで『この人はディスレクシアではない』とこちらが判断してしまった人もたくさんいた。自分の息子も含め…


という、痛みを伴う告白もありました。

とはいえ、ではディスレクシアの視覚の問題という話になるのかというと、IDA的にはそうはならないわけで・・・代わりに台頭したのが以下のようです。



その2  morphology(モーフォロジー)の台頭

(試訳では「形態」としましたが、以下では英語のままとします)


さまざまな粒度の言語において、ディスレクシアには音韻的側面が関係しているが、粒度が大きくなるほど、morphemeの知識が大きな役割を果たす。  

ディスレクシアの読みの問題には、音韻とmorphologyの両方が関与していると、我々は考える。



音韻と並ぶ概念として定義に入ってきた文言。もじこ塾的には今回、ここが一番衝撃でした。

今回のIDAでは、morphologyに関する発表がたくさんありました。
morphologyの教え方、morphologyの脳科学など…

morpheme(モーフィーム、「形態素」)は、接頭辞(rememberのre)や接尾辞(informationのtion)のこと。日本の受験英語でも教える概念です。
なお、IDA界隈では過去形の-ed、複数形の-s、-ingなども形態素に含めるようです。
こちらに至っては、日本の中学英語でがっつり教える事項です。

前者を教えると読みやすくなるのは知っていました。しかし今回、話はそこにとどまらず、
morphology的な処理の困難がディスレクシアの原因らしい、と定義で言っているのです。

rememberを例にとると、-erは「~する人」を表す接尾辞(例:singer)ですが、rememberのerはそれではありません。
でもディスレクシアだとここに戸惑いがあって、、ということのようです。


また、日本語のmorphemeが何なのかは、これから明らかにすべきことのようです。
私にとってはこのことが今回の最大の宿題ですが、ここでは割愛します。



3. continuum(ディスレクシアはスペクトラムである)

These difficulties occur along a continuum of severity
(ディスレクシア的困難は、重篤度の連続体に沿って生じる)

ディスレクシア研究の初期には、読み能力の分布は読める人vs.読めない人の二山型とされていたが、今では読み能力は正規分布を示すことが分かっている。  

つまり「これより読めなければディスレクシア」「これ以上読めればディスレクシアではない」というラインはない。


「連続体」とはスペクトラムのこと。IDAではdimensionalという言葉を使っていました。このことは何度も強調されていました。

また、上は検査に意味がないということではなく、検査を一律に解釈してはならない、いくつかの検査を組み合わせるべき、また教師の観察力が問われている、という意味と私はとらえました。




4. complex (ディスレクシアの原因は複雑である)

The causes of dyslexia are complex and involve combinations of genetic, neurobiological, and environmental influences that interact throughout development. 

(「ディスレクシアの原因は複雑。そこには遺伝的要因+神経生物学的要因+環境要因が組み合わさり、発達全体を通じて互いに影響し合ったものが関わっている」)


ディスレクシアはマルチファクター(multifactorial、複数の因子が絡んでいる)であり、かつスペクトラムだということは、何度も強調されていました。

また、遺伝の話は特に慎重に、注意事項がたくさんついていました。


・ディスレクシアに遺伝子が一定の役割を果たすのは事実だが、ディスレクシアの原因遺伝子は175もあり、それもディスレクシアに特化したものはない。

・言語発達は誕生さらには胎内から始まっているとの説もあり、遺伝子の発現は、発達期全体を通じた環境との相互作用に影響される。

・遺伝子はディスレクシアを決定づけるのではなく、その可能性を高めるに過ぎない。重度な場合も軽度な場合も、リスクファクターは同じ。 



5. Secondary consequences(二次的な影響)

二次的な影響はぜひ定義に含めてほしいという声が多かった。 包括的支援システムの設計のためである。


新定義でも印象的な部分として、

二次的影響が「語彙や背景知識」から「言語、知識、作文、学業全般、メンタル、就労」に広がった点があります。


「IDAの定義の目的は、医学的診断ではなく、学校で支援を受ける参照元となることにある」と明言していました。

そこから考えるに、この部分は当事者やその周りの人に釘を刺している印象があります。

と同時に、読解力不足はディスレクシアの原因ではなく、結果だと言っている気もします。

ここ数年のIDAでは、よく議論になっています。


何を二次的な影響にあげるかは、日本で言う二次障害的なものも候補にあがったそうです。

(不登校ではなく薬物乱用があがっていたのに、お国柄の違いを感じました。)



6. language and literacy support before and during the early years of education is particularly effective.

(教育の初期の数年および就学前における、言語とリテラシーに関するサポートは特に効果的である)


Xで反響を呼んだのがこの部分。ここは長くなりましたので、記事を分けます。


2025-10-30

IDAによるディスレクシアの2025年版定義について(その1:新定義の試訳)

今年もIDAに行ってきました!

円安の苦しさはありましたが、収穫もいっぱいありました。


今年の目玉はなんといっても、ディスレクシアの定義が23年ぶりに改定されたこと。


この記事を書きながら、新定義のすごさが、じわじわ来ています。

「ああこれは」と生徒の様子が目に浮かびますし、一言一言がとても思慮深い。

今後のディスレクシア研究や実践の指針となる定義という印象が日に日に強まってきました。





IDAの初日午後、新定義の作成委員が壇上に上り、経緯や文言を説明するシンポジウムが行われました。

以下は、その様子をまとめたものです。

すごく長くなりましたので、何部かに分けて順次アップしていきます。


「聴衆の皆さんは、新定義をstudy(吟味)し、そのうえでディスレクシア・コミュニティ全体を後押しするよう、それぞれの場所でシェアしてほしい」

とのことでした。

この言葉に後押しされながら、以下、まとめを書きます。


☆    ☆    ☆

まず、2002年の定義と2025年の定義がどのくらい変わったのかを把握するために、変更部分に色をつけてみました:


2002年版

Dyslexia is a specific learning disability that is neurobiological in origin. It is characterized by difficulties with accurate and/or fluent word recognition and by poor spelling and decoding abilities. These difficulties typically result from a deficit in the phonological component of language that is often unexpected in relation to other cognitive abilities and the provision of effective classroom instruction. Secondary consequences may include problems in reading comprehension and reduced reading experience that can impede growth of vocabulary and background knowledge."


2025年版

"Dyslexia is a specific learning disability characterized by difficulties in word reading and/or spelling that involve accuracy, speed, or both, and vary depending on the orthography. These difficulties occur along a continuum of severity and persist even with instruction that is effective for the individual's peers. The causes of dyslexia are complex and involve combinations of genetic, neurobiological, and environmental influences that interact throughout development. Underlying difficulties with phonological and morphological processing are common but not universal, and early oral language weaknesses often foreshadow literacy challenges. Secondary consequences include reading comprehension problems and reduced reading and writing experience that can impede growth in language, knowledge, written expression, and overall academic achievement. Psychological well-being and employment opportunities also may be affected. Although identification and targeted instruction are important at any age, language and literacy support before and during the early years of education is particularly effective."


「ディスレクシアは特異的学習障害、その困難は」「二次的影響は読解力の問題と読む経験の不足、それが」以外、全部ですね・・・



では試訳です。あくまでも、もじこ的暫定訳です:

ディスレクシアは特異的学習障害のひとつであり、その特徴は、単語を読むおよび/または綴ることの、正確さか速さの一方または両方にまつわる困難にある。この困難は書記体系によって異なる

この困難は重篤度のスペクトラムに沿って生じ、同級生にとって効果的な指導を受けてもなお残る。

ディスレクシアの原因は複雑であり、遺伝的、神経生物学的、環境的な影響が組み合わさり、発達全体を通じて相互作用を及ぼすものである。
根底には音韻処理および形態処理の困難が見られるのが一般的だが、必ず見られるわけではない。幼い頃の話し言葉の苦手さはしばしば、リテラシーをめぐる困難の予兆となる。 二次的な結果として、読解力の問題や読み書き経験の不足が言語、知識、文章表現、学業の全般的成果の向上を阻む可能性などがある。 心理的ウェルビーイングや就労の機会にも影響する場合がある。 何歳であっても、ディスレクシアと識別されピンポイントの指導を受けることは重要だが、就学前および就学初期の数年間における言語とリテラシーのサポートは特に効果的である。



訳注

・形態処理:morphologyの暫定訳。要検討です。


・リテラシー:カタカナにしておきます。


2025-08-29

特性理解のない父親と世代間連鎖(と戦争体験)

今日の日経新聞に、「戦争トラウマ 国が初調査」という記事がありました。
戦争から戻ってきた元兵士は、復員後長きにわたりPTSDに苦しんでいたが、そのことはずっと秘密にされていた。
数年前に最後の方が世を去ったのをきっかけに、国が調査に乗り出した、、という内容です。

そこで、もう何年も前に書いたまま、きっかけがなくてしまってあった文章を出すことにします。

親御さんの学習相談に乗っていると、意外なところからこの話につながる、、という内容です。

★             ★            ★

「父親が子どものディスレクシアを認めない」という相談はときどきあります。
 父親自身がディスレクシアであっても、そのようなケースがあります。

努力が足りない。
自分は気合いと根性で乗り越えてきた。
ツールを使うのはさぼりだ……

子どもがディスレクシアだと分かってもなお、このようなことを言う人がいます。

そのような人を説得するのは難しいです、と言った上で付け加えると、

このようなことを言う人は、親との関係にわだかまりがあるのかもしれません。 



「努力が足りない」と、ディスレクシアである我が子に対して言う人は、 
自分自身も努力を重ねたのに、それを親に認めてもらえた記憶がなく、満たされない思いを我が子にぶつけてしまうのかもしれません。

「親に『レギュラーに入れた』と喜んで報告したら、喜んでくれないどころか、『四番じゃないと意味がない』と言われた」
子どもの成果を素直に喜べない親は、自分が一度も自分の親に喜んでもらえなかったのかもしれません。

いまの親世代は、受験戦争を戦ってきた世代です。無理をするのは当たり前でした。
「自分の人生はずっと競争だった」としみじみ語る親は少なくありません。
やりたくないことを我慢して続ける。その連続だったと思います。
でも、同じことを自分の子に求めていては、ディスレクシアの子どもたちが救われることは、まずないのです。 

自分がこれまでずっと頑張ってきたことは、事実として認める。 
と同時に、やりたくもないことを続けるのをよしとする価値観は、自分の代で終わりにする。
「やりたくないことを我慢して続けるのが社会人」というメッセージを子ども達には送らない。
本当に度量がある大人なら、それができるはずです。
 
 「自分もそうしてきたのだから、あなたも同じことをしなさい」と子どもに押し付けてはならないのです。

自分の親に対する満たされない思いを、子どもにぶつけるのをやめること。
不毛な世代間連鎖を、自分の代でおしまいにすること。
辛いと思います。心の中の子供が「自分もそうされたかった」と泣き叫ぶかもしれません。
でも、こうした負の世代間連鎖を自分の代で終わりにすることこそ、ディスレクシアの子どもたちを楽にするための第一歩なのです。

★           ★            ★

ここから先は、本当に個人的な経験の範囲内なのですが、

このような不毛な世代間連鎖をさかのぼると、かなりの高確率で戦争体験・・・第二次大戦での出征経験に行きつくことに、あるとき気づきました。

祖父が戦死し、複雑な家庭に育った。
戦争から帰ってきてから、父親が人が変わったようになってしまったと聞いている。
「地震・雷・火事・オヤジ」で言う「キレるオヤジ」は戦争のPTSDだった、という論考があります※。その影響が世代間連鎖して、孫やひ孫の世代にまで影響を与えているらしいのです。

世代間のトラウマの連鎖を思うと、言葉がありません。
ただ一つ言えるのは、この一点からだけでも、戦争はしてはならないということです。


※平野啓一郎「「カミナリおやじ」とは誰だったのか?」『ベスト・エッセイ2018』所収、光村図書、2018

2025-08-28

朝日新聞EduAに、インタビューが掲載されました。その雑記

朝日新聞の教育関連サイト「EduA(エデュア)」で、配慮入試について話しました↓

(上)【学習障害のある子の受験】中学・高校入試でも「合理的配慮」は受けられる? 専門塾に聞く→ 

(中)【学習障害のある子の受験】進む大学入学共通テストの「合理的配慮」 専門塾に聞く→ 

(下)【学習障害のある子の受験】広がる総合型選抜にどう向き合う? 専門塾に聞く→



取材してくださった黒坂真由子さんは、『発達障害大全』の著者。私よりも断然この業界に詳しい方に、上手に話を引き出してくださいました。

しかも、こちらの修正を、驚くほどそのまま反映して下さいました。

本当にありがとうございます。


それでもなお、(ここまで言うとさすがに踏み込みすぎだろう。。)と思って踏みとどまる内容はけっこうありました。

それらを書き留めておいたものを、ここに置いておきます。3つの断片からなります。

配慮とは、歴史のなかで眺めてみるべきもの

●入試での配慮と授業での配慮は別物と考えるべき

配慮はゴールでなくスタートラインである


↓  ↓  ↓  ↓



配慮とは、歴史のなかで眺めてみるべきもの

そもそも配慮とは何か。これは歴史の流れに置いて見るべき概念。


人種差別、女性差別、アジア人差別。私が生きている間だけでもw、こうしたことはずいぶん乗り越えられてきた。


黒人や先住民族も同じ人間であり、差別はあってはならないという認識が浸透したり、

働くことに対して男女の能力差はないという考え方が日本社会にだいぶ浸透してきたり。


私は子供の頃にヨーロッパで、黄色人種ということで差別的な扱いを受けたことが何度もある。大学に入ってからは良妻賢母思想に直面し、今となっては忘れたけれどすごく抗った20代だった。

半世紀も生きると、社会規範は変わるんだと、しみじみわかる。当時と比べてアジア人に対する偏見はかなり減ったし、女性は結婚したら家庭に入れと言う人は、たぶんいなくなった。


こうした進歩と、配慮に対する考え方の変化は、同一線上にある。


「障害を障害たらしめているのは社会の側であり、能力がない人として切り捨ててはいけない」という認識へとシフトしつつあるのが、21世紀に入ってからの世界的な動き。そこには障害者権利条約のような国連条約や法制度の整備も関わっているし、脳科学の発展もある。

合理的配慮という考え方は、人類が理性によってさまざまな差別的な考え方を克服してきた、その流れにある。


まだまだ、いろんな偏見が続くかもしれない。

でも、女性差別もアジア人差別も、私が生きている間に克服されたのだから、ディスレクシアに対する考え方も、きっとあと1020年で変わるのではないか。


初代の生徒たちが親となり、その子供たちがいまの生徒の年齢になる頃、『子どもがディスレクシアなの?あなたの世代と比べて、いまはほんとに楽になったよ~』と言えるようになるのを夢想して、私はこの塾を続けています。





●入試での配慮と授業での配慮は別物と考えるべき

考えつくありとあらゆる配慮を受けて試験に臨んでも、結局のところ英語の実力がないことが露呈するだけということは、これまで何度もあった。

現状で妥当なのは、入試では最低限の配慮、、延長や拡大文字程度を得るにとどめることだろう。

一方で、普段の勉強の中では必要な配慮をすべて受け、実力をつけることに注力すること。

普段の勉強では、学習内容を理解できるために必要なことは、ツールも配慮も環境調整も、どんどん使うべき。というか教師は使わせるべき。


ディスレクシアは音を聞くことで英語を学べる人たちなので、音の出る機器を使って英語を学んでいくことは、実力をつけるためにとても有効だろう。

また、学校の課題提出がディスレクシア的にはとても辛いから、実力がついていることを別の形で証明するような課題提出ができたらいい。

あるいは、どうしても同じペーパーテストを受けなければいけないなら、ひどい点数でも再提出は課さないとか、評定に響かせないとか、そういう配慮もありかもしれない。

普段の授業の中では、配慮は最大限に受けるべきものである。


でも、入試でそれを過度に要求してはいけない気がする。

ガチガチに配慮を受け、試験の形まで変えて入試を突破しようとするのは、ちょっと歪んだ入り方の気がする。

入試は入った後にさらに難しい勉強が待っている種類のものだから、そんな人工的な方法で突破して、その次のステージで勉強していけるのか、授業についていけるのか、単位が取れるのかという問題が確実にある。

まして社会に出たら配慮などないと先輩たちは言う(これには逆の指摘もあるけれど。配慮をすることでチームとしてより成果が出せるなら配慮するのは企業としては至極当然と話す先輩もいる)、でもお金を払う立場からもらう立場に変わると、権利を主張する以前にチームに貢献できる人にならなければならない。

そう考えると、あまり人工的にガチガチに配慮を受けるのは良くないと思う。


配慮を受けて実力をつけ、その実力を入試で最低限の配慮で証明するという図式になる。

しかし、そこがまた勘違いされていて、多くの場合、ただ課題をこなし定期テストで点数を取ることが英語学習の目標になっている。本当の英語力をつけることがなおざりになっている。

そんな状態で配慮を受けて入試を突破しようとしても、本当の英語力がない以上、実力がないゆえに落ちることになる。

そのことに生徒はうすうす気づいているが、配慮を求める親が気づいていないかもしれない。




 

配慮はゴールでなくスタートラインである


配慮を得たら、この先どうやって勉強していけば英語が身につくのかという問題に、ようやくきちんと向き合えるようになる。

もじこ塾のように、塾内では配慮という意識がないほどにディスレクシア・フレンドリーなアプローチが実現してもなお、(あるいはより一層)、ディスレクシアにとって英語を学ぶのがとても大変だということが露呈する。

普通の人の何倍も反復が必要。配慮を得たからといって、急に普通の人のようにできるようになるわけではない。

配慮はそうした苦労を目の当たりにするスタートである。そのことをきちんと認識しないといけない。


英語圏では配慮は「level the playing field(戦うフィールドを平らにならす)」ことだと説明される。マイナスからのスタートをゼロからのスタートにするという意味。

ゼロの状態になるというのは、ようやくスタートラインに立てて、そこから戦わなきゃいけないということ。そこからが本当のスタート。戦えるだけの実力をつけなければいけない。



入試では、その先で学べるだけの英語力があるということを示せるべきだが、むしろ難しいのはその部分。

そこまで到達するには、違うアプローチで、普通の子よりも圧倒的に時間をかけて英語を学ぶ必要がある。たいへんな覚悟が必要。


努力なし、配慮とツールだけで皆と同じように渡り合えると思うのは勘違い。正しい方向とで(根性論は禁止)、という但し書きがつくが、圧倒的な努力が必要。