朝日新聞の教育関連サイト「EduA(エデュア)」で、配慮入試について話しました↓
(中)【学習障害のある子の受験】進む大学入学共通テストの「合理的配慮」 専門塾に聞く→★
(下)【学習障害のある子の受験】広がる総合型選抜にどう向き合う? 専門塾に聞く→★
取材してくださった黒坂真由子さんは、『発達障害大全』の著者。私よりも断然この業界に詳しい方に、上手に話を引き出してくださいました。
しかも、こちらの修正を、驚くほどそのまま反映して下さいました。
本当にありがとうございます。
それでもなお、(ここまで言うとさすがに踏み込みすぎだろう。。)と思って踏みとどまる内容はけっこうありました。
それらを書き留めておいたものを、ここに置いておきます。3つの断片からなります。
●配慮とは、歴史のなかで眺めてみるべきもの
●入試での配慮と授業での配慮は別物と考えるべき
↓ ↓ ↓ ↓
●配慮とは、歴史のなかで眺めてみるべきもの
そもそも配慮とは何か。これは歴史の流れに置いて見るべき概念。
人種差別、女性差別、アジア人差別。私が生きている間だけでもw、こうしたことはずいぶん乗り越えられてきた。
黒人や先住民族も同じ人間であり、差別はあってはならないという認識が浸透したり、
働くことに対して男女の能力差はないという考え方が日本社会にだいぶ浸透してきたり。
私は子供の頃にヨーロッパで、黄色人種ということで差別的な扱いを受けたことが何度もある。大学に入ってからは良妻賢母思想に直面し、今となっては忘れたけれどすごく抗った20代だった。
半世紀も生きると、社会規範は変わるんだと、しみじみわかる。当時と比べてアジア人に対する偏見はかなり減ったし、女性は結婚したら家庭に入れと言う人は、たぶんいなくなった。
こうした進歩と、配慮に対する考え方の変化は、同一線上にある。
「障害を障害たらしめているのは社会の側であり、能力がない人として切り捨ててはいけない」という認識へとシフトしつつあるのが、21世紀に入ってからの世界的な動き。そこには障害者権利条約のような国連条約や法制度の整備も関わっているし、脳科学の発展もある。
合理的配慮という考え方は、人類が理性によってさまざまな差別的な考え方を克服してきた、その流れにある。
まだまだ、いろんな偏見が続くかもしれない。
でも、女性差別もアジア人差別も、私が生きている間に克服されたのだから、ディスレクシアに対する考え方も、きっとあと10年20年で変わるのではないか。
初代の生徒たちが親となり、その子供たちがいまの生徒の年齢になる頃、『子どもがディスレクシアなの?あなたの世代と比べて、いまはほんとに楽になったよ~』と言えるようになるのを夢想して、私はこの塾を続けています。
●入試での配慮と授業での配慮は別物と考えるべき
考えつくありとあらゆる配慮を受けて試験に臨んでも、結局のところ英語の実力がないことが露呈するだけということは、これまで何度もあった。
現状で妥当なのは、入試では最低限の配慮、、延長や拡大文字程度を得るにとどめることだろう。
一方で、普段の勉強の中では必要な配慮をすべて受け、実力をつけることに注力すること。
普段の勉強では、学習内容を理解できるために必要なことは、ツールも配慮も環境調整も、どんどん使うべき。というか教師は使わせるべき。
ディスレクシアは音を聞くことで英語を学べる人たちなので、音の出る機器を使って英語を学んでいくことは、実力をつけるためにとても有効だろう。
また、学校の課題提出がディスレクシア的にはとても辛いから、実力がついていることを別の形で証明するような課題提出ができたらいい。
あるいは、どうしても同じペーパーテストを受けなければいけないなら、ひどい点数でも再提出は課さないとか、評定に響かせないとか、そういう配慮もありかもしれない。
普段の授業の中では、配慮は最大限に受けるべきものである。
でも、入試でそれを過度に要求してはいけない気がする。
ガチガチに配慮を受け、試験の形まで変えて入試を突破しようとするのは、ちょっと歪んだ入り方の気がする。
入試は入った後にさらに難しい勉強が待っている種類のものだから、そんな人工的な方法で突破して、その次のステージで勉強していけるのか、授業についていけるのか、単位が取れるのかという問題が確実にある。
まして社会に出たら配慮などないと先輩たちは言う(これには逆の指摘もあるけれど。配慮をすることでチームとしてより成果が出せるなら配慮するのは企業としては至極当然と話す先輩もいる)、でもお金を払う立場からもらう立場に変わると、権利を主張する以前にチームに貢献できる人にならなければならない。
そう考えると、あまり人工的にガチガチに配慮を受けるのは良くないと思う。
配慮を受けて実力をつけ、その実力を入試で最低限の配慮で証明するという図式になる。
しかし、そこがまた勘違いされていて、多くの場合、ただ課題をこなし定期テストで点数を取ることが英語学習の目標になっている。本当の英語力をつけることがなおざりになっている。
そんな状態で配慮を受けて入試を突破しようとしても、本当の英語力がない以上、実力がないゆえに落ちることになる。
そのことに生徒はうすうす気づいているが、配慮を求める親が気づいていないかもしれない。
●配慮はゴールでなくスタートラインである
配慮を得たら、この先どうやって勉強していけば英語が身につくのかという問題に、ようやくきちんと向き合えるようになる。
もじこ塾のように、塾内では配慮という意識がないほどにディスレクシア・フレンドリーなアプローチが実現してもなお、(あるいはより一層)、ディスレクシアにとって英語を学ぶのがとても大変だということが露呈する。
普通の人の何倍も反復が必要。配慮を得たからといって、急に普通の人のようにできるようになるわけではない。
配慮はそうした苦労を目の当たりにするスタートである。そのことをきちんと認識しないといけない。
英語圏では配慮は「level the
playing field(戦うフィールドを平らにならす)」ことだと説明される。マイナスからのスタートをゼロからのスタートにするという意味。
ゼロの状態になるというのは、ようやくスタートラインに立てて、そこから戦わなきゃいけないということ。そこからが本当のスタート。戦えるだけの実力をつけなければいけない。
入試では、その先で学べるだけの英語力があるということを示せるべきだが、むしろ難しいのはその部分。
そこまで到達するには、違うアプローチで、普通の子よりも圧倒的に時間をかけて英語を学ぶ必要がある。たいへんな覚悟が必要。
努力なし、配慮とツールだけで皆と同じように渡り合えると思うのは勘違い。正しい方向とで(根性論は禁止)、という但し書きがつくが、圧倒的な努力が必要。
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