5. 「漱石ディスレクシア説」の裏付け4点
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1. 「漱石は誤字ばかり書いたのか」から、
漱石ディスレクシア説を立てる
著者はまず漱石の誤字を挙げ、これらは現代では0点になると言います。
そして、これらが本当に「うっかりミス」「覚え間違い」かを検証していきます。
これらは誤字ではない、というのが著者の立場です。
その証拠として、著者はまず、当時これらは
「異体字」だったと言います。
いくつかは、
1716年に清で編纂された『康煕字典』に近い例があると言います。
ただ、当てはまらないものも、かなりあることを認めます。
その上で、漱石の誤形字を
「古くからしっかりした文献に書かれた字体であり、康煕字典体と異なるものの、日本において標準的な字体だったと言えるもの」つまり
異体字、
「標準的とは言えないものの…漱石のみならずかなりの人々が書いていたと思われるもの」いわゆる
俗字体、
そして、「文献資料に例が見つけられないため、どのくらいの人が書いていたか不明のもの(これは
ウソ字と言わざるを得ない)」としたうえで、
さらに時代をさかのぼった場合、「達」には辶に幸の異体字があるなど、「ウソ字」も漢字のバリエーションとして説明できる、と言います。
・・・いえいえ、お言葉を返すようですが、
漱石はディスレクシアであり、漢字を読むのはまだしも、書くのは相当つらかった、
上の字はやっぱり誤字なんだと、考えてみたらどうでしょう?
いろんなことのつじつまが合うように思います。
上の字は、どれをとってもディスレクシア的な間違い方です。
うちの子も、すでに習った「類」「達」「祝」については、
上とまったく同じように書いたことがあります。
☆ ☆ ☆
続いて著者は、
一字に複数の字体が存在し得ることが、漢字の本来の特徴であり、
明治時代の『康煕字典』と戦後の当用漢字表・常用漢字表によって、
日本では異体字の存在が次第に認められなくなっていった、
「漢字は漢字らしさを、この200年で失っていった」と指摘します。
・・・これはなるほどです。
つまり、近世の日本(もしかしたら清でも)では、
ディスレクシアの人が、異体字という名のもとに、
誤字がけっこう混じった文章を書いていた可能性がある
ということですよね。
行書体なら、漢字の細部までは問われなかったでしょうし、
筆のほうがディスレクシアにとっては書きやすかったようです(後述)。
漢字は歴史上ずっと、ディスレクシアに辛い文字体系だったのではなく、
昔は異体字や俗字体を幅広く許容した、ディスレクシア・フレンドリーなものだったのですね。
(実は、異体字や俗字体の一部は、当時のディスレクシアの人による、典型的な書き間違いだったかもしれません?!)
現代は、字の異常なほどの正確さが(主に試験で)要求される点で、
日本の書字の歴史において例外的な時代だと、改めて分かります。
☆ ☆ ☆
最後に著者は、漱石が自分の名前をも「誤形字」で書いていたと指摘し、
「自分の名は間違えません」、だからこれは通用字のはずと言いますが・・・
いやいや!自分の名前だって書き間違うのがディスレクシアです。
うちの子は(どの漢字か紹介できないのがほんとに残念ですが)
テストなどでは自分の名前をちょこちょこ間違えます。
線が一本足りなかったり、ハライの方向が逆だったり。
2. 漱石の誤字はどのように説明されてきたか
漱石に誤字が多いことは、専門家の間では知られている事実のようです。
漱石を神格化するあまりか、誤字を誤字と認めない説が多いのにびっくりします。
例えば、
借金は「帰」さない?漱石の誤字に隠れた意図という記事では、
『坊っちゃん』の中には借金を<帰す>と<返す>と2種類の表記があるが、
そこには
漱石の綿密な使い分けがあると言います。
ええ~そうかな?!
うちの子が「借金を帰す」と書いたら
(いかにもディスレクシア的な間違い方なので書きそうですが)
「綿密な使い分け」とは決して言ってもらえないでしょう。
「文豪たるもの、一つ一つの語彙の選択に、入念な意図があるはず」
という思いがあって、
だから誤字を誤字とはしないで、そこから深遠な意味を読み取ろうとするのでしょうが…
でも、
字と語彙は同じではないとしたら、どうでしょう?
作家たるもの、もちろん一つ一つの語彙の選択には、必ずや入念な意図があるでしょう。
でも、
字は語彙を可視化したものに過ぎません。
どの語を使うかに入念な意図があっても、必ずしもそれが、一般的に通用する字と一対一対応しているとは限りません。
少なくともディスレクシアにおいては。
「文字を超えたところに、本当の言葉がある」
ということが、特に顕著に表れるのが、ディスレクシアです。
☆ ☆ ☆
漱石の字を、さらに神格化している例もあります。
引用の引用で申し訳ありませんが:
石川九楊は、こう書く。
<夏目漱石の書簡、条幅、いずれも文字は見事にすっきりと垂直に並んでいる。行の中心線に無関心ではいられなかったからだろう。
私見によれば、天空に向けてまっすぐに伸びる中心線は神への階梯、神(「価値」)に生きる象徴である。>
夏目房之介「読めなかった祖父の直筆原稿」より
(『直筆で読む「坊っちゃん」』(集英社新書ヴィジュアル版、p383) )
苦笑。。
ここから浮かび上がってくるのは、
「きちんとした思索は、きちんとした文字によって書かれる」
逆に言うと
「字がだらしない人は、思考もだらしない」
「誤字や悪筆は、考えがいいかげんな証拠」
という社会通念です。
文豪が悪筆だということが、ど~~しても認められないんですね・・・・
悪筆で誤字だらけでも文章が素晴らしいということは、十分にあり得るのですが。
漱石の直筆には誤字がたくさんあるけれど、
そのことは、彼の作品が名作であることをいささかも損なうものではありません。
3. ディスレクシアと創造性
ディスレクシア(読字障害)とは、知能は普通ですが、文字⇔音の認知処理が普通より遅い認知特性です。
書くほうについては、誤字が多くて悪筆or誤字はないが書くのが異常に遅いという表れ方をします。
読みの困難は、知能が高いと、文脈から字を推測する力が発達するため、表面化しないことがあります。
言語の特性上、日本語よりも英語に多く表れます。
・・・以上が"障害"に焦点を当てたディスレクシアの説明ですが、
当ブログでは、
「ディスレクシアとは、字を読み書きするのが苦手な一方、
独創的な視点の持ち主である」
という立場を取っています。
アメリカでディスレクシアと独創性の関係についての研究を進めているEide博士夫妻によると、
ディスレクシアには空間把握力にに加え、一見つながりのない物事同士の関係を見出す力、
物語を語る力、将来をシミュレーションする力が特に高いと言います。
そして、後者2つの才能は、特に文章の創作(作家、脚本家など)に生かされると言います。
→
こちら(「ディスレクシアであることの利点」)
欧米では、ディスレクシアの作家として、アガサ・クリスティー、スコット・フィッツェラルド、ジョン・アーヴィングなどが知られています。
参考:
こちら(英語です)
つまり、漱石がディスレクシアであっても不自然な点はなく、
それどころか、
「ディスレクシアだからこそ、時代の先を行く作品を生み出すことができた」
とさえ言えるのかもしれないのです。
☆ ☆ ☆
「漱石は漢籍に詳しかったのだから、ディスレクシアのはずがない」
という反論があると思います。
これに対しては、漱石は知能の高いディスレクシア(
隠れディスレクシア)だったと考えられます。
これだと、読みには一見問題がなくても、正しい字をすばやく書くことに困難を伴います。
「漱石は書を書いている」という反論もあると思います。
これに対しては、
「ディスレクシアの場合、筆で書けば絵の感覚で書けるが、鉛筆だと誤字が頻発する」
という指摘が、当ブログに寄せられています。
また、ディスレクシアだと、体を使って大きな字を書くと比較的書けますが、
小さな字を書くのは苦手です。
こうした、字の大きさや筆記用具による誤字率の差は、考慮に値します。
4. 『坊っちゃん』の直筆原稿
ではここで、『直筆で読む「坊っちゃん」』から、漱石の直筆を紹介します。
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「漱」が口へんになってます! |
なんと勢いのない字!(→けなしてません)
「神への階梯」とかは、悪いけどまったくの見当違いでしょう。
上で挙げられていた誤字の多くは、この冒頭ページに登場します。
1文目の「損」、4行目「段」、
5行目「冗」(どうみても「空」と混同。とてもディスレクシア的)、
最後の行の「答」など。
ひらがなは異体字が多いですが、誤字はありません。
(例えば3行目は「腰を抜かしたことがある。なぜそんな無闇をしたと聞く」です。)
個人的には、もんがまえの線がぷるぷるしているあたりに、ディスレクシアを感じます。
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2行目「赤シやツ」、3行目「専問」の明らかな誤字があるほか、
1行目「命」、5行目「遠慮」の慮、12行目「露西亜」の露などもかなり微妙です。 |
すべてのページに誤字があると言っても、過言ではありません。
ちなみに漱石は『坊っちゃん』150枚を、10日ほどで一気に書いたそうです。
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7行目「氣が済まない」の「氣」のくずし方(乙がない)、
8行目は「袴」もですが、「大きな玄関に突つ立つて」の「関」のもんがまえのくずし方は、とてもディスレクシア的です。
うちの家庭教師君(弱いディスレクシア)もこういうくずし方をします。
「字を思い出すスピードが思考のスピードに追いつかなくて、ついそうしてしまう」のだそうです。 |
5. 「漱石ディスレクシア説」の裏付け4点
今回、高校以来始めて『坊っちゃん』を再読しました。
こんなに"面白い"文章だったとは!
字面だけ追うと、単にどたばたした話なんですが、
坊っちゃんの眼球を自分の眼球に入れたつもりで小説の世界を眺めると、
坊っちゃんが見えているものだけでなく、坊っちゃんが見えていないものまで見えるんですね。
「日本語を使ってここまで表現できるなんて!」と今でも思わせ、
明治時代にあっては本当に別格な小説だったろうと思いました。
漱石がディスレクシア的だなと感じる点を、4点挙げてみます。
1. 絵がうまい
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『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』より、漱石の絵手紙 |
絵が上手なのは、ディスレクシアによくみられる特徴のひとつです。
2. 中学を「英語が嫌い」で退学している
小学校では学業優秀で飛び級までしているのに、
府立一中(現在の日比谷高校)を「英語嫌い」で退学しています。
現代でも、日本語だけを勉強しているときはわからなかったのに、
中学で英語の学習が始まったときにディスレクシアが発覚することはよくありますが、それを彷彿とさせます。
3. 「漱石」という名前
そもそも、「漱石」と自分を名付けるあたりに、
自分の認知特性を理解していたと感じるのは、うがちすぎでしょうか?
「漱石」とは、中国の故事に由来します。
- 晋の孫子荊(孫楚)がまだ若かった頃、厭世し隠遁生活を送りたいと思い、友人である王武子(王済)に、「山奥で、石を枕に、清流で口を漱ぐという生活を送りたい」(枕石漱流)というところを間違えて、「石で口を漱ぎ、流れを枕にしよう」(漱石枕流)といってしまった。王武子が「流れを枕に?石で口を漱ぐ?できるものか。」と揶揄した。すると孫子荊は負けじと「流れを枕にするのは俗世間の賤しい話で穢れた耳を洗いたいからだ。石で口を漱ぐのは俗世間の賤しいものを食した歯を磨きたいからだ。」といい返した。→こちら
ここから「漱石」とは「負け惜しみが強い、変わり者」を意味するそうですが、
もしかしたら「
自分は漢字を入れ換えてしまうことが多い」(→ディスレクシアの特徴のひとつ)という自覚があって、それでペンネームにしたとは考えられないでしょうか?
あるいは、「漱石」は子規の数あるペンネームからもらったそうですが、
子規が漱石の誤字の多さに気づいていて、「漱石」の名前を与えたのかもしれません・・・
4. 『坊っちゃん』とからめて
『坊っちゃん』の内容には深入りしませんが、1点だけ・・・
もしも、漱石の「誤字」に、文字の歴史的変化に基づく深い意図があるとした場合、
文字の歴史に関する知識がない人、つまり教養のない人は、
『坊っちゃん』を深くは理解できないことになります。
でも「坊っちゃん」を貫くメッセージは、そんな教養主義とは正反対のはず。
ここからも、漱石の字は"通時態"に照らして理解すべきものではなく、
漱石は誤字を書く作家、つまりディスレクシアだったのだろうと思います。
日本を代表する作家には、ほかにもディスレクシアの人がいる気がします。
これについてはまたの機会に。