ディスレクシア専用英語塾「もじこ塾」のブログです。 ●ディスレクシアとは:知能は普通だが、読み書きが苦手(読み間違いが多い、読むのが遅い、書き間違いが多い、読むと疲れやすい)という脳の特性 ●全体像の把握、物事の関係性・ストーリーの把握、空間把握、ifを考えるシミュレーション能力に長ける ●読み書きの困難は、日本語より英語に出やすい ●適切に対処すれば、読みの問題は表面上は克服される ●10人に1人程度いるというのが通説 ●家族性とされるが、ディスレクシアの表れ方は個人差が大きい もじこ塾は、ディスレクシアはこれからの社会に不可欠な才能、でも日々の学習では普通と違うアプローチが必要、という立場です。

2025-08-29

特性理解のない父親と世代間連鎖(と戦争体験)

今日の日経新聞に、「戦争トラウマ 国が初調査」という記事がありました。
戦争から戻ってきた元兵士は、復員後長きにわたりPTSDに苦しんでいたが、そのことはずっと秘密にされていた。
数年前に最後の方が世を去ったのをきっかけに、国が調査に乗り出した、、という内容です。

そこで、もう何年も前に書いたまま、きっかけがなくてしまってあった文章を出すことにします。

親御さんの学習相談に乗っていると、意外なところからこの話につながる、、という内容です。

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「父親が子どものディスレクシアを認めない」という相談はときどきあります。
 父親自身がディスレクシアであっても、そのようなケースがあります。

努力が足りない。
自分は気合いと根性で乗り越えてきた。
ツールを使うのはさぼりだ……

子どもがディスレクシアだと分かってもなお、このようなことを言う人がいます。

そのような人を説得するのは難しいです、と言った上で付け加えると、

このようなことを言う人は、親との関係にわだかまりがあるのかもしれません。 



「努力が足りない」と、ディスレクシアである我が子に対して言う人は、 
自分自身も努力を重ねたのに、それを親に認めてもらえた記憶がなく、満たされない思いを我が子にぶつけてしまうのかもしれません。

「親に『レギュラーに入れた』と喜んで報告したら、喜んでくれないどころか、『四番じゃないと意味がない』と言われた」
子どもの成果を素直に喜べない親は、自分が一度も自分の親に喜んでもらえなかったのかもしれません。

いまの親世代は、受験戦争を戦ってきた世代です。無理をするのは当たり前でした。
「自分の人生はずっと競争だった」としみじみ語る親は少なくありません。
やりたくないことを我慢して続ける。その連続だったと思います。
でも、同じことを自分の子に求めていては、ディスレクシアの子どもたちが救われることは、まずないのです。 

自分がこれまでずっと頑張ってきたことは、事実として認める。 
と同時に、やりたくもないことを続けるのをよしとする価値観は、自分の代で終わりにする。
「やりたくないことを我慢して続けるのが社会人」というメッセージを子ども達には送らない。
本当に度量がある大人なら、それができるはずです。
 
 「自分もそうしてきたのだから、あなたも同じことをしなさい」と子どもに押し付けてはならないのです。

自分の親に対する満たされない思いを、子どもにぶつけるのをやめること。
不毛な世代間連鎖を、自分の代でおしまいにすること。
辛いと思います。心の中の子供が「自分もそうされたかった」と泣き叫ぶかもしれません。
でも、こうした負の世代間連鎖を自分の代で終わりにすることこそ、ディスレクシアの子どもたちを楽にするための第一歩なのです。

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ここから先は、本当に個人的な経験の範囲内なのですが、

このような不毛な世代間連鎖をさかのぼると、かなりの高確率で戦争体験・・・第二次大戦での出征経験に行きつくことに、あるとき気づきました。

祖父が戦死し、複雑な家庭に育った。
戦争から帰ってきてから、父親が人が変わったようになってしまったと聞いている。
「地震・雷・火事・オヤジ」で言う「キレるオヤジ」は戦争のPTSDだった、という論考があります※。その影響が世代間連鎖して、孫やひ孫の世代にまで影響を与えているらしいのです。

世代間のトラウマの連鎖を思うと、言葉がありません。
ただ一つ言えるのは、この一点からだけでも、戦争はしてはならないということです。


※平野啓一郎「「カミナリおやじ」とは誰だったのか?」『ベスト・エッセイ2018』所収、光村図書、2018

2025-08-28

朝日新聞EduAに、インタビューが掲載されました。その雑記

朝日新聞の教育関連サイト「EduA(エデュア)」で、配慮入試について話しました↓

(上)【学習障害のある子の受験】中学・高校入試でも「合理的配慮」は受けられる? 専門塾に聞く→ 

(中)【学習障害のある子の受験】進む大学入学共通テストの「合理的配慮」 専門塾に聞く→ 

(下)【学習障害のある子の受験】広がる総合型選抜にどう向き合う? 専門塾に聞く→



取材してくださった黒坂真由子さんは、『発達障害大全』の著者。私よりも断然この業界に詳しい方に、上手に話を引き出してくださいました。

しかも、こちらの修正を、驚くほどそのまま反映して下さいました。

本当にありがとうございます。


それでもなお、(ここまで言うとさすがに踏み込みすぎだろう。。)と思って踏みとどまる内容はけっこうありました。

それらを書き留めておいたものを、ここに置いておきます。3つの断片からなります。

配慮とは、歴史のなかで眺めてみるべきもの

●入試での配慮と授業での配慮は別物と考えるべき

配慮はゴールでなくスタートラインである


↓  ↓  ↓  ↓



配慮とは、歴史のなかで眺めてみるべきもの

そもそも配慮とは何か。これは歴史の流れに置いて見るべき概念。


人種差別、女性差別、アジア人差別。私が生きている間だけでもw、こうしたことはずいぶん乗り越えられてきた。


黒人や先住民族も同じ人間であり、差別はあってはならないという認識が浸透したり、

働くことに対して男女の能力差はないという考え方が日本社会にだいぶ浸透してきたり。


私は子供の頃にヨーロッパで、黄色人種ということで差別的な扱いを受けたことが何度もある。大学に入ってからは良妻賢母思想に直面し、今となっては忘れたけれどすごく抗った20代だった。

半世紀も生きると、社会規範は変わるんだと、しみじみわかる。当時と比べてアジア人に対する偏見はかなり減ったし、女性は結婚したら家庭に入れと言う人は、たぶんいなくなった。


こうした進歩と、配慮に対する考え方の変化は、同一線上にある。


「障害を障害たらしめているのは社会の側であり、能力がない人として切り捨ててはいけない」という認識へとシフトしつつあるのが、21世紀に入ってからの世界的な動き。そこには障害者権利条約のような国連条約や法制度の整備も関わっているし、脳科学の発展もある。

合理的配慮という考え方は、人類が理性によってさまざまな差別的な考え方を克服してきた、その流れにある。


まだまだ、いろんな偏見が続くかもしれない。

でも、女性差別もアジア人差別も、私が生きている間に克服されたのだから、ディスレクシアに対する考え方も、きっとあと1020年で変わるのではないか。


初代の生徒たちが親となり、その子供たちがいまの生徒の年齢になる頃、『子どもがディスレクシアなの?あなたの世代と比べて、いまはほんとに楽になったよ~』と言えるようになるのを夢想して、私はこの塾を続けています。





●入試での配慮と授業での配慮は別物と考えるべき

考えつくありとあらゆる配慮を受けて試験に臨んでも、結局のところ英語の実力がないことが露呈するだけということは、これまで何度もあった。

現状で妥当なのは、入試では最低限の配慮、、延長や拡大文字程度を得るにとどめることだろう。

一方で、普段の勉強の中では必要な配慮をすべて受け、実力をつけることに注力すること。

普段の勉強では、学習内容を理解できるために必要なことは、ツールも配慮も環境調整も、どんどん使うべき。というか教師は使わせるべき。


ディスレクシアは音を聞くことで英語を学べる人たちなので、音の出る機器を使って英語を学んでいくことは、実力をつけるためにとても有効だろう。

また、学校の課題提出がディスレクシア的にはとても辛いから、実力がついていることを別の形で証明するような課題提出ができたらいい。

あるいは、どうしても同じペーパーテストを受けなければいけないなら、ひどい点数でも再提出は課さないとか、評定に響かせないとか、そういう配慮もありかもしれない。

普段の授業の中では、配慮は最大限に受けるべきものである。


でも、入試でそれを過度に要求してはいけない気がする。

ガチガチに配慮を受け、試験の形まで変えて入試を突破しようとするのは、ちょっと歪んだ入り方の気がする。

入試は入った後にさらに難しい勉強が待っている種類のものだから、そんな人工的な方法で突破して、その次のステージで勉強していけるのか、授業についていけるのか、単位が取れるのかという問題が確実にある。

まして社会に出たら配慮などないと先輩たちは言う(これには逆の指摘もあるけれど。配慮をすることでチームとしてより成果が出せるなら配慮するのは企業としては至極当然と話す先輩もいる)、でもお金を払う立場からもらう立場に変わると、権利を主張する以前にチームに貢献できる人にならなければならない。

そう考えると、あまり人工的にガチガチに配慮を受けるのは良くないと思う。


配慮を受けて実力をつけ、その実力を入試で最低限の配慮で証明するという図式になる。

しかし、そこがまた勘違いされていて、多くの場合、ただ課題をこなし定期テストで点数を取ることが英語学習の目標になっている。本当の英語力をつけることがなおざりになっている。

そんな状態で配慮を受けて入試を突破しようとしても、本当の英語力がない以上、実力がないゆえに落ちることになる。

そのことに生徒はうすうす気づいているが、配慮を求める親が気づいていないかもしれない。




 

配慮はゴールでなくスタートラインである


配慮を得たら、この先どうやって勉強していけば英語が身につくのかという問題に、ようやくきちんと向き合えるようになる。

もじこ塾のように、塾内では配慮という意識がないほどにディスレクシア・フレンドリーなアプローチが実現してもなお、(あるいはより一層)、ディスレクシアにとって英語を学ぶのがとても大変だということが露呈する。

普通の人の何倍も反復が必要。配慮を得たからといって、急に普通の人のようにできるようになるわけではない。

配慮はそうした苦労を目の当たりにするスタートである。そのことをきちんと認識しないといけない。


英語圏では配慮は「level the playing field(戦うフィールドを平らにならす)」ことだと説明される。マイナスからのスタートをゼロからのスタートにするという意味。

ゼロの状態になるというのは、ようやくスタートラインに立てて、そこから戦わなきゃいけないということ。そこからが本当のスタート。戦えるだけの実力をつけなければいけない。



入試では、その先で学べるだけの英語力があるということを示せるべきだが、むしろ難しいのはその部分。

そこまで到達するには、違うアプローチで、普通の子よりも圧倒的に時間をかけて英語を学ぶ必要がある。たいへんな覚悟が必要。


努力なし、配慮とツールだけで皆と同じように渡り合えると思うのは勘違い。正しい方向とで(根性論は禁止)、という但し書きがつくが、圧倒的な努力が必要。

 


2025-05-02

もじこ塾だより,by笠野紺さん(6)

5月はもじこ塾が勝手に「ディスレクシア啓発月間」と題して、発信活動を強化する月です。
なぜなら、単語テストが壊滅的にできない人がたくさん検索して、もじこ塾にたどりついて下さる時期なので・・・
そのタイミングで、ディスレクシアの存在を知ってもらいたいのです。

今年は、これまで書きかけてそのままになっていた記事を、蔵出ししていく予定です。
まずは、紺さんが昔描いてくれたマンガが出てきました・・・!紺さんごめんなさい。
8年くらい前のものですが、いま読んでもとっても新しい。



もじこ塾だより、by笠野紺さん
その(1)  その(2)
  
その(3)  その(4)
   
その(5)


2025-03-15

受験報告会を行います!

今年も受験報告会を行います!





今年は、見逃し配信を行います!(ただしWISCの情報だけは削除します、ご了承ください)

もじこ塾と生徒たちで、今年のディスレクシア的大学入試を語り尽くします!

お申し込みはこちらから→(peatixのサイトに飛びます)


今年の登壇者は、以下の通りです:

(1)(一般入試、配慮あり):中高一貫卒。去年も「GK君」として受験報告会で話した彼は、いろいろあって再受験。中高では配慮なし、浪人してから配慮申請。もじこ塾の助手をしながら考え続け、一段と深く鋭くなった彼のディスレクシア論を語ってもらいます。

GK君の昨年の合格体験記はこちら→。彼はこの文章を書いたころ、私も知りませんでしたがすでにパニック障害を抱えていました。結局は発作のせいで、一浪で入った大学には一日も行くことができず。今年は心を立て直すことを最優先に生活した結果、再受験でW大学に合格。


(2) (一般入試、配慮なし):公立中→私立高校→一般入試(理系)。高校は皆勤で、陸上部も引退までフル参加。高校で配慮を受けなかったため、入試でも配慮は受けていません。なぜ配慮を受けなかったのか?そこには彼の、はっきりとした思いがありました。

・・・この紹介だとすごくエネルギッシュに見えますが、実際の彼はほんわかした印象です。斜視もあって、読むのは大変そうです。

模試では、英語も国語も15分ほどで寝落ちしていましたが、こちらは「部活で疲れているからだろう」「遠距離通学だからだろう」と思っていました。でも部活を引退した後も模試で寝落ちしていたため、ようやく疲れだけが原因ではないと気づいた頃はもう秋口・・・


(3) (総合型選抜、配慮なし):公立中(通級)→私立高校(スポーツ推薦)→総合型選抜。高校入学時には日本語の読み書きに困難のあった彼が、大学入試では小論文を書けるほどに。その背景には、野球部で毎日欠かさず続けていた「あること」が・・・

彼は中学生の集団クラスに在籍していました。礼儀正しく、スポーツ万能。公立中のジャージ姿で地下鉄に乗ってもじこ塾に来るような、純朴な一面もありました(?!)。小1から通級に通っていたこともあり、ディスレクシアとしてはかなり重度でもあります。「甲子園を目指す」と言って卒業しました。

彼から久しぶりに連絡があったのは去年の8月。「特別支援の教員になりたいので大学に行きたい。今から対策したい」と言われて驚きましたが、持ってきたものを見てさらに驚きました。それが上の「あること」です(すみません、引っ張ってます)

彼の合格体験記はこちら→


そして・・・
もう一人、出演が決まりました!
この人はこの2年半ほど、もじこ塾の助手をしてくれています。
その前はしばらく、引きこもりをしていました。
中学入試を経て入った一貫校で不登校に。内部進学できず別の私立高校に進学、そこから通信制へ。コロナも重なり、外部との接触が非常に少ない生活のなか、受験した大学は全落ち。そこからしばらく音信不通になっていましたが、「社会復帰したい」ともじこ塾でアルバイトをするようになりました。
そんな彼が、このたび、進学することになりました!!
彼が話をどのくらいできるかは未知数ですが、社会復帰までのあいだ考えていたことを、話してくれる予定です。

このように、本格的社会復帰から進学校出身者の配慮入試まで、非常に多彩なラインナップで今年はお届けします!
ここでしか聞けない話が満載となること請け合いです!
関心のある方はぜひご視聴ください。

2025-03-13

IDA24・その3(雑感)

書いた状態で半年も放置していました。。とりあえずアップしておきます。

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2024年のIDA(国際ディスレクシア協会)年次総会に行ってきました。

振り返り、その3です。


今年のIDAは、

「フォニックスや音韻認識が大事なことは、もうみんな分かったよね、
なのでその先に行くよ」
という雰囲気でした。
フォニックスや音韻認識・音素認識以外の要素の話が多かったです。

◆IDAでよく言及された概念

1) Reading Rope(リーディングロープ)
前回のIDAで初めて見た気がします。読むというのは単語レベルの読字能力と、文や文章に関するもう少し幅広い知識が、あざなえる縄のように組み合わさることで、強固な文章読解力になる、ということを示した図です。

Reading Ropeで検索すると、最近は色つきのものも出てきます。


2) Structured Literacy(ストラクチャード・リテラシー)

アンチフォニックス派に対抗して編まれた、ディスレクシア(そして他の生徒にも)有効な、言語教育の初歩の原則(principle)のこと。
2014年に制定され、今回バージョンアップして正式にお目見えしたらしいです。
https://app.box.com/s/mvuvhel6qaj8tghvu1nl75i0ndnlp0yz


何を教えるか(the "What"):
フォニックス(表ではphonemes⇔graphemes)、morphology、音節、など、さまざまな要素が含まれています。
それらの教え方(the "How"):
明示的・体系的・多感覚・積み上げ式・ヒントを出す・データ重視、絞ったフィードバック、双方向、などの要素が含まれています。

3) SOR (Science of Reading)
Structured Literacyは、読み能力を向上させる効果があると科学的に実証されたことがらに基づいて編まれたものです。Structured Literacyの基盤となるこの「科学的な読みの科学」を、Science of Readingと呼びます。脳科学、心理学、教育学などの研究からなります。
SORの真の敵は、"非科学的"な言語教育です。

そのもとになったのが、2年前に発表されて大きな反響を呼んだこちらのポッドキャストです。2022年、コロナ生活真っ最中のころに公開され、私も日本で聞いて衝撃を受けました。
衝撃はアメリカでも同様だったようで、今回のIDAでも「Emily Hanfordの功績は~」と著者のジャーナリストをたたえる発言が何度かありました。

アメリカで80年代から90年代にかけてアンチフォニックスが隆盛を極めた結果、人口の3割がまともに読めなくなってしまったこと、アンチフォニックス派教材が巨大な利権の渦巻く一大市場であること、支持政党とも関係する話であることが暴かれています。

アンチフォニックス派は多少のフォニックスを取り入れた上で、自らを「Balanced Literacy」(バランスド・リテラシー派)と呼ぶようになりました。



話をIDAに戻し、今回は脳科学の話が少なかったのは残念。
IDAの面白さは、現場の教師と脳科学者が対等に議論するところにあるので・・・
来年以降に期待したいです。


◆3日目、フィンランドの大学教授の講演は、内容以上に聴衆の様子が印象的でした。

アフリカの学校向けにフォニックス?のアプリを開発した人だそうですが、

男子のほうが女子よりも字が汚いし、ゲームが好きだし、ゲームが好きすぎて本に向かえなくなっている・・・と話したあたりから、会場が白けてきました。

途中でどんどん人が出て行き、予定時間より早く講演が終わってしまうありさまでした。

この様子から、IDA出席者(白人女性。たぶん多くが教師)の考え方が、少しわかった気がしました。

・教育の場でのテクノロジー利用には案外、否定的です。

・男女の差を明確に示すことには、触れたくない雰囲気を感じました。

・ゲームに対する考え方も、かなり保守的な気がします(これは、日本が進みすぎているのかもしれません)


講演者のメッセージは、個人的には面白く聞きました:

「読めるということは、書き言葉と話し言葉がつながっているということ」

「アフリカには面白い読み物がないから、楽しみのために読む経験がない。その結果、読解力が育たない」

「読解力を育てるためには、能動的な読み、キーワードを見つける能力が必要。面白そうなところを飛ばし読みする経験はその最初の一歩になる」

「自分はアプリを開発してアフリカで採用してもらったが、むしろその国のPISAスコアは下がってしまった。たぶんそのアプリだけで十分だと思われてしまったのだが、それではダメ。娯楽で読む経験も必要」

話せば話すほど会場が白けるのを感じながら、アメリカには英語のあらゆる娯楽的コンテンツが溢れかえっているので、面白い読み物がない状況が想像できないのかもと思いました・・・

また、日本ではディスレクシアの小学生に対し「マンガでかまわない、とにかく活字を読みましょう」と勧められることがありますが、その効果を裏付けていると感じました。