on dyslexia

ディスレクシア
(読字障害、読み書き障害、失読症、難読症、学習障害、読み書きのLD)について、調べて分かったこと/実践したこと/英語から訳した文章をアップしています。

ディスレクシアとは:
- 
知能は普通だが、読み書きが苦手(誤字が多い、読み書きが遅い、読み間違いが多い)
- 独創的で、対人能力が高い。空間把握力、全体像や物事の関係性を把握する能力に長ける。
- 音と文字の脳内での結びつきが弱いことから起こるらしい
- 読み書きの困難は、日本語より英語に出やすい
- 細かい聞き間違いがみられるが、音声情報の処理能力は高い
- エピソード記憶が得意。固有名詞などの細かい丸暗記は苦手
- 適切に対処すれば、読みの問題は表面上は克服される
- 10人に1人程度いるというのが通説

当ブログは、ディスレクシアはこれからの社会に不可欠な才能である、でも日々の学習では普通と違うアプローチが必要--という立場です。


2014-12-17

ディスレクシアの子をほめるということ

最近の当ブログでは、「ディスレクシアな子への接し方が難しい」が
もっぱらの話題になっておりますが、、

わたくし、予備校講師としては大変にほめる部類のようです。
あまりにほめるので、一度など某巨大掲示板で
「××講師はほめすぎる」と批判されたことも(! ̄д ̄)

でもどんな生徒でもほめられたいものだという、自信が私にはあります。
開成だろうが麻布だろうが、東大理III志望だろうが・・・

そんな「ほめ系講師」を自認していた私が、
小3で担任から「補助教員が必要かも。特別支援学級も視野に」と言われ、
青天の霹靂でびっくりしていると、さらに
「お母さん!もっともっとほめてあげて下さい」
と言われたときは、逆ギレしそうになりました。

「は?この子のどこをほめたらいいの?!」
とさえ思いました。

当ブログでも何回か白状していますが、ディスレクシアと知らない頃は
私は子のことを相当罵倒して追い詰めていました。

「お母さん!××君はほめ言葉にからからに飢えてますよ。
小さなことでも、どんどんほめてあげて下さい」

そう言われて、途方に暮れました。

なんで私が「ほめ足りない」などと、言われないといけないのか・・・


不思議ですよね。
職業的には、すごくほめる講師だと思うのですが、
自分の子には、それを実践できていなかったのです。

自分の子供への言動と、なんでそんなことを言ってしまうのかを、
よくよく振り返りました。

私の場合はどうやら、勉強だけが取り柄で学校になじめなかった昔の自分を
正当化したい気持ちがあったようです。
それを、罪のない子供にぶつけていたのです。
実に恥ずかしいことです。

私が罵倒しないようになると、子供もどんどん落ち着いていきました。
それどころか、「僕はディスレクシアなんだから」と、
周囲から受ける多少の誤解は受け流せるようになりました。
ほんとに強い子です。
あの日以来、子も親もずいぶん変わりました。

☆  ☆  ☆

ディスレクシアの子をほめるのは、心構えによっては
「は?」と思うくらい大変なことだと、よく分かります。。

これをお読みの、ディスレクシア児の扱いにお困りの方に提案したいのは:

・「この子はまったく違う物の見方をしている。
映像で、あるいはより多次元的に世界を理解しているので、
それを文字という二次元に落とし込むのに大変な苦労をしている」と考える。

そう考えると、す~っと落ち着きます。
(というか、実際そういう理解の仕方をしている人種なのです)

・学校の先生から子供に言ってもらいたいことを、自ら実践する。

担任の先生から子供に対し、どのような言葉をかけてもらいたいでしょうか?

「自分の子を言葉で追い詰めてもらいたい」と思う親などいないはずです。
むしろ「いいところを見て、ほめてほしい」と思うはずです。
それを、自ら子供に対して実践するということです。

☆  ☆  ☆

以上が、この秋くらいまでの境地です。

ここから、話の次元がまったく変わります。すみません。



9月末、当ブログで最も反響の大きな記事である「隠れディスレクシア」の
エイデ博士夫妻から連絡を受けたことは、前に書いた通りです。

そうするなかで、夫妻には17歳の娘さん(弱いディスレクシア)がいたこと、
10歳の頃に肺がんが見つかり、闘病生活を送っていたこと、
そして今年の母の日の直前に亡くなられたことを知りました。。

Dyslexic Advantage(ディスレクシアであることの利点)執筆は、
娘さんのガン闘病生活と並行していたとは
(TДT)(TДT)

夫妻は娘さん亡き後も、ますます盛んに
ディスレクシアの能力を世間に広める活動を続けておられます。
その無私で前向きな心には、ほんとうに胸を打たれます。

以来、

- もし自分が、ディスレクシアな子に死なれてしまったとして、
ディスレクシアな生徒をどうにかしたいと思えるだろうか?

- 子や生徒の、未来を思い描いての言葉をかけているだろうか?

- エイデ夫妻に恥じない接し方を、子や生徒に対してできているだろうか?

そんなレベルで自問するようになってしまい、
正直、子をほめるなんて、あまりに簡単なことになってしまいました(苦笑)。

いまや寝る前に「生まれてきてくれてありがとう。今日も本当にえらかったね」
という言葉が自然に出るレベルです(泣き笑い)。

でも実のところ、こんな根源的なレベルでほめてようやく、
ディスレクシアに字の練習をさせるという過酷な一日の終わりが、
精神的にトントンになる気もしています。

7 件のコメント:

  1. こんにちは。隠れ〜の当事者っぽい立場の私が思うのは「ほめる」も確かにほしいものですね。”親に”という欲はだれでも通る感情かなと。
    個人的な経験でいうなら「根源的なレベルで褒める」というよりも「自分のそのままでいい」っていう安心感に飢えていました。そういう姿を言葉や態度で家族に求めていたものかもしれない。
    私は自分が一般と違った見方をしていることに大人になってから知りまして、それ以来「なんでちっとも伝わらない…!!」というだれでもない全方位にぶつけようのないイライラも減りましたし、自分への労いもできるようになりました。自分で自覚するだけでもストレスがずいぶん減り、イライラしても仕方がない部分は流せるし、周りの理解があるのを言葉で伝えて言わなくても、黙ってみてくれているのを感じるだけで落ちつけるようになると思います。
    子供時代は学校で…私は大人ですが、大人になっても変わらず、日常がアウェイ続きなもので。
    自分で楽しみを見つけたらのびのび伸びていく人たちだと、私は思います〜。
    ディスレクシアという事情で、表現をスムーズにできるようやり方や環境を変える必要はありそうですが、みんなと一緒に過ごしたい気持ちは一般と同じか、もっと強くあるかな、と思います。

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    1. 「そのままでいい」という安心感、、心に響きました。
      ちょっとずれるかもしれませんが「ありのままを受け入れる」に通じるものがありますでしょうか。これも担任に言われて意味不明に感じたことのひとつでした。

      「みんなと一緒に過ごしたい」は、「ディスレクシア仲間が必要」という意味でもあるでしょうか?最近そのことを感じる場面が続いています。ディスレクシア大学受験生が、自分と同じ境遇の人の存在を知ったときの態度たるや、「この惑星に異星人は自分一人だけと思っていたけど、実は同じ星から来た人がもう一人いた!」くらいの深い孤独の影が。

      ブログの方も読ませて頂いています。当事者の自己発見の旅を固唾をのんで見守っております(^^)
      「大から小へ」「全体から部分へ」。はい、私もディスレクシアの認知方法はそこがポイントかなと思っています。

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  2. 「みんなと一緒」というのは、クラスの人・家族親族、いつも身近にある環境の人たちも含めてです。もちろんディスレクシア仲間を見つけると「自分だけじゃない!」安心は絶大。ずっと抱えてた「ディスレクシアあるある話」を思い切り話せる相手はきっと当事者のほとんどが渇望してるでしょうね。巡りあう機会すら珍しいので、顔を合わせて話せる環境がとても幸運だと思いますよ(*´∀`人)

    日常で接する大半はディス以外の人たちで「特別扱いが嫌」は私もありました「みんなと同じ並びで過ごしていたい」気持ちが私は強かったんですが(誰かを蹴落としてまで自分が評価されるものは要らない、という気持ちが個人的に強いからかもしれませんが)ただみんなと同じ場所で同じ時間に一緒に勉強していたい「当たり前」の中に自分も参加したい、けどなんでか出来ない、なぜ?と。
    私のように漢字もそれなりに書けていた状況は(なんかみんなと違うんだよなぁ…と思いつつ)学校で楽しく居れましたし友人も出来、いまも変わらず付き合ってくれる同級もいます。
    …むしろ帰宅してからふさぎこむことが増えて大変でした。家で緊張するんです…家族こそホームグラウンドであってほしいものですが難しいですね〜。中途半端な困難なので余計に…わかりにくさで言うなら、漢字の雰囲気よみに先日自覚したくらいなので…他人には無理もないかなと。苦しいけど現状ですからねぇ〜こっからどうする?に力入れます。(*´ω`)

    …掘り返すと愚痴が止まらなくなってしまって(なにやってんだ…)と苦しくなるんですが、愚痴も進む前の荷降ろし行為って感じでネガティブに思わないようにしてますよ

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  3. でもまぁその愚痴ですら周りに吐き出せない(分かり合えない)からこそ、ディスレクシアというもの、自分と周りが違うこと、自分だけじゃないことを知ること、そういう出会いや知識が心強さになる。
    ディスレクシアにはディスレクシアにしかできない癒やしやパワー、共感が、当事者にしか癒せないような部分も大きくて本人に苦しさや困難の自覚があって、自分から読んでいくなかで共感があるのなら、自然と自ら知りたくなるはず。
    診断が〜と親御さんの苦労もわかるのですが、私のように検査を受けても診断がない場合もありますから、本人の感覚に近いかどうかを見て、本人の言葉を待つこと、それが大事なんだと思います。表現しないのではなく、表現したいけどうまく出来ないことが辛いのですから

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    1. 過去を思い出すとどろどろと出てきますよね、、私もADHDと分かってしばらく「も~、もっと早く知ってたかったよ~」とやり場のない怒りを感じました。
      私の場合、紺さんほどの実害は少なく、また年代も一回り上で発達障害が今よりも全然知られていなかったので「まあ、仕方なかったよね」と思うことができました。前のコメントで紺さんにご指摘を受けて、むしろポジティブになりましたよ☆ありがとうございます。
      ここで好きなだけ吐き出していって下さい(^^)
      「表現したいけどうまく出来ないのが辛い」。そうですね。発達障害の人は相手に与える印象と抱えている思いの間にずいぶんギャップがありますよね。もしかしたら精神疾患や重度の障害でもそうなのかも・・・と、気づきが広がっております。

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  4. もじこさん、こんにちは。いつものアカデミックな書きぶりとはちょっとテイストが違っていますね。かけがえのないお子さんへの思いが、しんしんと伝わってきました。
    もじこさんを知ったのはずいぶんと昔のことですが、もじこさんのお蔭でディスレクシアのことを知り、また、人の認識の仕方にはそれぞれ「個性」があるのだ、ということをはっきり認識したのは、最近のことです。でも、それ以来、私も娘への見方が少しずつ変わってきている気がします。たとえテストの(くだらない)誤答であっても「ああ、この子はこういうとらえ方をするんだな。面白いな。」ぐらいは思えるようになりました。「なんで間違えたの?」という質問が、口をついて出てこなくなった、といいますか。。。

    まあ、私は保育園や学校の周囲の父兄の皆さんからも、「平社員さんは、娘には大甘だ」と思われているようなので、大した変化はないのだと思いますが、とにかく、今回のもじこさんの記事が私の心に響きました、ということをお伝えしたかったのでした。

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    1. えっ、いつもアカデミックでしたか?!

      実は最近は、特定の方とのやりとりが発展して記事になることが続いておりまして、これもある方と「ディスレクシアである子供をほめるのはいかに難しいか」にやりとりする中で生まれました。
      こんなことを書いても、それでも「なんで小数点の位置が!」と切れかけたりしています。。
      平社員先輩は遠距離で勉強を見ているのですよね。すごいです!

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